フランスの首都パリから南に約200kmのヌヴェールにあるサン・ジルダール修道院に、世界的にも有名な「ベルナデッタのミイラ」が安置されています。
ベルナデッタには、死後30年経過しても生きていたときと同じ状態だったという奇跡が伝わります。
ベルナデッタのミイラが保管されているサン・ジルダール修道院には、現在もルルドの奇跡に惹かれる巡礼者が絶えません。
そこで、彼女の奇跡に包まれた生涯や事情、死後のことなどに言及していきます。
記事の内容
- ベルナデッタがミイラになるまで
- 今でも会えるベルナデッタ・スビルーのミイラ
- ルルドの奇跡
- 好奇の目から逃れるように修道女へ
- ベルナデッタの死後の経過
- ミイラには腐食防止のため蝋でマスク
- なぜそこまでして保存するのか
- 現在はヌヴェール愛徳修道会サン・ジルダール修道院の大聖堂
- ベルナデッタのミイラの画像
- ベルナデッタのミイラに関する謎と噂
- そもそも本物か?
- 腐らない遺体とその理由
- 白骨化が進んでいるという噂
- デスマスクは存在していない
- 総括:ベルナデッタのミイラは最後まで奇跡に包まれた
ベルナデッタがミイラになるまで
ベルナデッタ・スビルーは、19世紀の人物で1866年7月22歳のときサン・ジルダール修道院で修道女となります。
ある奇跡によってフランスで好奇の目にさらされていた彼女ですが、それからの人生は修道院で静かに過ごし、1879年4月16日に35歳で天に召されました。
死んでのちも彼女に奇跡が訪れたベルナデッタですが、彼女の奇跡とミイラとなり現在に至るまでについて見ていくことにしましょう。
今でも会えるベルナデッタ・スビルーのミイラ
ベルナデッタ・スビルーのミイラは、現在もフランスのヌヴェールにある「ヌヴェール愛徳修道会サン・ジルダール修道院」の大聖堂で、ガラスの棺に入った状態で安置されています。
参拝者は遺体となったベルナデッタと接することができますが、それが彼女の望んでいたことかは知る由もありません。分かっていることといえば、ベルナデッタの死から54年後、当時のローマ教皇ピウス11世によって彼女が聖列されたことです。このことによりベルナデッタは「写真に撮られた最初の聖人」となりました。
ルルドの奇跡
ベルナデッタ・スビルーは、キリスト教信者のなかで「ルルドの奇跡」として知られる当事者です。
1858年2月11日、読み書きも出来ない14歳の少女ベルナデッタ・スビルーは、マッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき「婦人のかたちをした白いもの」と遭遇します。
これが後にカトリック教会が「聖母マリアの出現」と公認する奇跡の始まりです。
ベルナデッタ本人は、その婦人らしきものが聖母などと思っていなかったのですが、一緒にいた2人の子供の口から噂は広まり、だんだんと騒ぎが大きくなっていきました。ベルナデッタの前に聖母は18回姿を現したといわれています。
9回目の出現のときには多くの見物人が集まるようになっていて、そのとき「ルルドの泉」が湧き出しています。聖母が水を飲み、顔を洗うようにベルナデッタへ伝え、川へ行こうとした彼女を制止し清水の湧く場所を教え、それがルルドの泉の起源になっています。
聖母出現の噂が広まるなかになって、当然ながら協会関係者達は懐疑的な見方をしていました。学もない少女の言うことだったので無理もないことですが、ルルド教区の司祭だったペラマール神父はベルナデッタが「あれ」と呼ぶ婦人の名前を聞くことを指示したことから真実とみなされました。
ベルナデッタに名前を聞かれた聖母は「無原罪の御宿り」と告げ、それを聞いたペラマール神父は驚愕します。「無原罪の御宿り」とは、この4年前にカトリックに加えられた教義で、無学なベルナデッタが知るはずもない言葉だったのです。
この6年後、ルルドには小さな聖堂が建てられましたが、話はヨーロッパ中に広がりやがて大聖堂に建替えられます。
好奇の目から逃れるように修道女へ
「聖母マリアの出現」から6年後に聖堂が建てられ、この奇跡やルルドの泉のことが新聞に載ると、ベルナデッタは時の人となってしまいます。
フランス中からベルナデッタに面会を求める人が殺到し、ロザリオを触ってもらおうとしたり、服の一部を貰うことを願い出たり、人々の好奇の目に悩まされ続けました。
人々はベルナデッタを聖女だと信じていたので、聖遺物を欲していたのですが、ベルナデッタはその「聖女扱い」されることに一番の辛さを感じていたのです。
そんなベルナデッタに救いの手を差し伸べたのは、幕末期に琉球にも滞在したことのあるフォルカード神父でした。
フォルカード神父は、遠慮し続けるベルナデッタを何度も説得し、1866年7月にヌヴェール愛徳修道会へベルナデッタを斡旋します。
ベルナデッタの死後の経過
ヌヴェール愛徳修道会で修道女となったベルナデッタは、スール・マリー・ベルナールという名になりました。
修道会では「不幸な人々以外に関心を持たず、その人々を心から助けることに専念する」という修道会の教えを守り、雑用係や看護婦として日々従事しています。
もともと体が弱く難病持ちだったベルナデッタは、1879年4月16日に35歳で息を引取りました。
彼女の遺体は、鉛とオーク材で作られた棺に納められ、修道院の中庭にある地下墓地へ安置されます。しかし奇跡はここからも続きました。
ベルナデッタが聖列されるにあたって、聖性等の調査のため法律と教会法に従って、3度の遺体鑑定が行われたのですが、第1回目の1909年、30年ぶりに人目に触れたベルナデッタの姿は生きていたときと同じ様子で、まったく腐敗していなかったのです。
ミイラには腐食防止のため蝋でマスク
記録に残っているベルナデッタの遺体鑑定は、合計3回行われています。1909年の鑑定終了後に、修道女たちはベルナデッタの遺体を洗い、取り決めどおり新しい棺に移しました。
その後1919年4月と1925年4月の2度、遺体鑑定が行われましたが、3度目の鑑定ではほとんど状態は完全ながら、過去の鑑定の影響からか遺体の一部が傷つき皮膚が黒ずみかけていたようです。
そのときに今目にしているベルナデッタのような姿になったと伝わりますが、腐敗を防止するため精巧な蝋のマスクが顔と両手に被せられたといわれています。
なぜそこまでして保存するのか
ベルナデッタのミイラに関しては色々な噂があり、それについては後ほどふれますが、なぜ腐敗防止を図りながらベルナデッタを保存するのでしょうか。
かつてのカトリック教会では、神の御業によって死後も腐敗しないものは神聖さの証とされていました。
現在では奇跡への認定はされていませんが、以前までは状態を保つために様々な処理がなされていたことは公然の秘密です。
カトリック教圏ではこのような遺体やミイラが多く保管されており、日本へキリスト教を伝えたとして知られているフランシスコ・ザビエルのミイラも、インドのゴアに保存されています。
現在はヌヴェール愛徳修道会サン・ジルダール修道院の大聖堂に
先にも述べたようにベルナデッタのミイラは、ヌヴェール愛徳修道会サン・ジルダール修道院の大聖堂で、ガラスの棺に入った状態で安置され、参拝者は会うことができます。
ベルナデッタのミイラを目にした人の多くが「生きているよう」という感想を述べています。サン・ジルダール修道院には、ベルナデッタのミイラが安置されるほか、彼女に関連する資料室や売店などがあり、いまでもルルドの奇跡に惹かれる巡礼者たちの訪問が絶えません。
旅の最後は、聖ベルナデッタの眠るフランス・ヌベールのサン・ジルダール修道院へ。
ベルナデッタがここから新しい人生をはじめたように、私たちもまた新たにここから始めるつもりで来ました。
ルルドからここまで無事にたどり着けた事に感謝し、祈りを捧げました。 https://t.co/x8iBXFIa0S— チェレステ楽団 (Celeste Gakudan) (@celegaku) July 20, 2019
ベルナデッタのミイラの画像
現在ヌヴェール愛徳修道会サン・ジルダール修道院の大聖堂で安置されている、ベルナデッタのミイラの写真を紹介します。
このようにガラス張りの棺に納められ、参拝者が見ることができます。
蝋のマスクが被せられているので、精巧な蝋人形にも見えてしまいますが、実際のベルナデッタのミイラです。本当に生きているかのような保存状態で、少し怖いくらいな感じがします。
ベルナデッタのミイラに関する謎と噂
ベルナデッタのミイラは、その美しい保存状態にたいして懐疑的な目をもつ意見も存在しています。
様々な疑問に対する真実を知っているのはカトリック教だけなのですが、これらの噂について考察してみましょう。
そもそも本物か?
サン・ジルダール修道院に安置されているベルナデッタのミイラは、本物ではないのでは?という疑問が呈されることがありますが、これについては「本物」です。
本物でというと少し語弊があるので、正確に記すなら「本物のベルナデッタ・スビルーのご遺体」となります。聖母マリアと遭遇するという奇跡により、人々から好奇の目を向けられることに迷惑していた彼女にとって、死後に人々に見られるこの現状をどう思っていることでしょうか。
腐らない遺体とその理由
ベルナデッタの遺体は、死後30年経過してから鑑定のために棺から出され、その時にほとんど死の直後と変わらないことで奇跡といわれました。なぜベルナデッタの遺体は、腐敗することがなかったのでしょうか。
信心深い方にとっては「神の御業」となるのでしょうが、現在はカトリック教会もこのような事例を奇跡認定から除外しているので、科学的な説明が必要になるでしょう。
一番可能性が高いのは「死蝋」という現象です。まずベルナデッタが最初に遺体鑑定を行われたときの記録によると、地下墓地は湿気が多いためベルナデッタが持っていたロザリオは錆びていました。
また十字架も銅に発生する錆(緑青)により膨張していたといいます。
この環境下で腐敗しない条件は、腐敗菌がなかったか偶然腐敗菌が増殖しない環境下にあって、ベルナデッタの遺体が変性し死体全体が蝋かチーズのような状態になったと考えられます。
これは多くはないものの他でも実例があり、日本でも1977年に改葬のため掘りおこされた福沢諭吉の遺体は、完全に死蝋化していたといわれています。このときは福沢諭吉の遺族の強い希望で荼毘に付されたのち改葬されました。
断定はできないものの、ベルナデッタの遺体にはこのようなことが起こったのでしょう。
白骨化が進んでいるという噂
ベルナデッタのミイラには、「白骨化が進んでいる」という噂があります。それというのも遺体鑑定のとき、顔と手の型を採っているからです。
現在公開されているベルナデッタのミイラを見ると、顔と手しか目視で確認できないため、修道着の下などは謎に包まれています。
記録によれば「薄く精巧な蝋のマスク」が顔と手に被せられただけなのですが、それも真実なのか確かめることはできません。
しかし大聖堂に安置されてから腐敗がはじまったとすると、修道着なども汚れ異臭もするはずなので、白骨化はしていないものと考えられます。
ただ本当にマスクを被せただけなのか、それとも腐敗防止の処置をしたものなのか、本当のところは分かりません。
デスマスクは存在していない
ベルナデッタの遺体鑑定では、彼女の顔と手の型が採られていますが、これは蝋のマスクを作るためだと伝わっています。
西洋では一時期まで故人を偲ぶ遺品のひとつとしてデスマスクが作られていましたが、ベルナデッタのデスマスクは存在していないはずです。一部の人にいわせると薄いマスクもデスマスクらしいのですが、あくまで保護するためのものであると教会が主張するので、それを信ずるほかないのです。
総括:ベルナデッタのミイラは最後まで奇跡に包まれた
記事のポイントをまとめます。
ベルナデッタのミイラについて
ベルナデッタ・スビルーと奇跡
- 14歳のとき聖母マリアの出現の当事者となったベルナデッタ
- ベルナデッタがルルドの泉の始まり
- 時の人となるもそれが苦痛だったベルナデッタ
- 22歳でヌヴェール愛徳修道会の修道女
- 病弱だったベルナデッタは35歳で死去
- 聖性等の調査で生きているような姿を現す
- サン・ジルダール修道院の大聖堂に安置されているベルナデッタのミイラ
ベルナデッタのミイラにまつわる噂
- 巡礼者が会っているベルナデッタは本物
- ベルナデッタの遺体は死蝋の可能性が高い
- 白骨化も進んでいないという教会の主張
- 薄いマスクの下は分かっていません
奇跡に包まれたベルナデッタの生涯と、死後のことについて触れてきました。貧しく慎ましい人生を歩んでいた片田舎の少女だったベルナデッタは、聖母マリアとの邂逅を通して人生が大きく変わってしまいました。
しかし道を外すことなく生き続け、修道女として35年の人生を全うした彼女には、死後再び奇跡が訪れたのです。生きているようなベルナデッタのミイラを見ると、その姿だけで「正しく清らかに生きてきた」ことが直感的に理解できるでしょう。
ただ奇跡が幸せを呼ぶとは限らないことは、ベルナデッタの人生を見ると分かることが、少し心の棘のように感じないでしょうか、考えさせられます。