テストに出るかもしれないから五街道を覚えたいのに中々覚えられない・・
そんな方へ五街道に覚え方を解説しつつ、五街道について理解を深められる知識も紹介していこう。
記事の内容
- 五街道の覚え方
- そもそも、五街道とは
- 五街道は江戸時代がはじまり
- 五街道1つ1つを詳しく解説
東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道 - 五街道 関所の覚え方
- 5つの豆知識
五街道の中で最も重要視された場所
管理していたのは誰か
並木には何を植えてたか
荷物持ちと馬の常備で苦しい経営か
現在の国道でいうと何処か - 五街道の覚え方、歌をもある
- 総括
五街道の覚え方は「途中に置こう、五街道」
五街道とは、江戸時代の江戸、日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の5つを指した陸上幹線道のことである。
この5つをカンタンに覚える方法は以下だ。
「途中に置こう、五街道」。
(と) (ちゅう) (に) (お) (こう)
(順に) 東海道 中山道 日光街道 奥州街道 甲州街道
人はストーリーやイメージしやすいものに置き換えるとカンタンに記憶ができる。
日本橋を起点に目的地にたどり着くための、途中の道を五街道と考えると「途中に置こう、五街道」は覚えやすいはずだ。
そもそも、五街道とは?
「試験に出るから五街道を覚えなければならない」という人もいるはずだ。
ただ、そもそも五街道についてどのぐらい知っているだろうか。
そこで、五街道について詳しく解説していこう。
五街道は江戸時代がはじまり
五街道とは、江戸時代の初代将軍の徳川家康が政治支配力を強めるために、1601年に道路制度の整備を進め、各宿場に伝馬を常備させ、道幅を広げて宿場を整備し、砂利や砂を敷いて地面を固めたり、松並木を植えるなどを行った道のことだ。
1604年、この道を2代目将軍の徳川秀忠が日本橋を起点とした五街道と定めたのである。
幕府の平和と江戸の防衛を目的とし、街道のあらゆる所に関所(検問)を設置して通行人を取り締まった。
秀忠は政治的、軍事的に重要な五街道を幕府直轄として、一里(約3.927km)ごとに塚(目印)を築いて街道沿いに並木を植えることを命じたわけだ。
五街道1つ1つを詳しく解説
では、五街道それぞれについて詳しく見ていこう。
以下の地図が、各街道の位置となる。
出典:五街道のルート
そして、1つ1つの街道の詳細は次の通りだ。
東海道
1601年正月、東海道諸宿に伝馬制が敷かれた。
箱根関などの難所があったが、施設が最も優れ、常ににぎわいが絶えなかったようだ。
- 常備人馬数:100人 100疋
- 宿 : 江戸(日本橋)-京都(三条大橋)間に53宿。京街道(大津-守口間の4宿)も延長とされる。
- 総延長:江戸・京都間 126里6町余(約495.5km)
- 江戸・大坂間 137里4町余(約538.5km)
- 参勤通交大名数(文政期):146家
東海道といえば、歌川広重の「東海道五十三次」の浮世絵が有名だ。
こちらの絵は日本橋。
中山道
1602年、東海道に次いで伝馬制を実施した。
単に山道といったり、木曽路とも呼ばれていた。
- 常備人馬数:50人 50疋(贄川~馬籠は20人20疋)
- 宿:板橋より守山まで67宿あるが、通常は草津、大津を加え木曾街道六十九駅という
- 総延長:江戸~草津間 129里10町余(約507.7km)
- 京都までは135里34町余(526.3km)
- 参勤通交大名数(文政期):30家
甲州街道
1618年に官道となる。
江戸中期以降、商品流通路として賑わった。
- 常備人馬数:25人 25疋
- 宿:内藤新宿、八王子など45の宿。 下諏訪で中山道に合流。
- 総延長:江戸-下諏訪間55里(約220km)
- 参勤通交大名数(文政期):3家
日光街道
1602年、宇都宮町に伝馬の負担が命じらた。
1617年の東照宮造営以後、参詣路として重要視されることになった。
- 常備人馬数:25人 25疋
- 宿:江戸から日光鉢石宿に至る21宿
- 総延長:40里18町(約130km)
- 参勤通交大名数(文政期):41家
奥州街道
寛永の間(1624-44年)頃に整備・改修された。
江戸後期、北方問題が起こり公用通行が増加。
- 常備人馬数:25人 25疋
- 宿:白沢から白河までの10宿。宇都宮までの17宿は日光道中と奥州道中を兼ねる
- 総延長:48里(約190km)
- 参勤通交代名数(文政期):37家
以上が各街道についての詳細である。
距離や参勤交代で通る数でいえば東海道が圧倒的に大きい。
五街道 関所の覚え方
関所の覚え方と言っても下記を読み覚えるしかないが、それほど難しくはないはずである。
東海道にある関所
- 江戸の近くが箱根関、駿府と三河の間にあるのが新居関(今切関)
中山道にある関所
- 江戸と下諏訪の間にあるのが碓井関
甲州道中にある関所
- 江戸から下諏訪の間にあるのが小仏関
日光・奥州道中にある関所
- 江戸から宇都宮の間にあるのが栗橋
つまり、江戸の周囲を固めているのが、関所ということになるわけだ。
目的は、「入鉄砲に出女」といわれるように、江戸へ入る鉄砲と江戸から出る人質の大名の奥方を警戒していたからだ。
五街道の覚え方:5つの豆知識
ここからは、五街道に関する5つのマメ知識を紹介しよう。
①五街道の中で最も重要視された場所
江戸幕府が最も重要視したのは、東海道で「入鉄炮出女」と呼ばれる交通政策が取られ、特に関所の取り締まりは厳しかったそうだ。
入鉄炮とは、江戸に武器が入ってくることの取り締まりのことを意味し、出女とは参覲交代制度のために人質として江戸に住まわせた諸大名の妻子らが江戸から脱出させないために監視することを言う。
②五街道の管理は誰がしてたの?
五街道を総括していたのは道中奉行と呼ばれる所で、街道の維持管理を沿道の宿村に割り当てて、その執行責任を負わせた。
交通量の多い街道によっては維持管理が間に合わない場合があり、円堂に接しない周辺の村にも割り当てが及び、割り当てられた区間を掃除丁場と呼んでいたということだ。
村から掃除丁場までの距離は大半は一里(約4km)以内でしたが最も遠い所では5里(約20km)あったと言われている。
また、並木の管理は遠藤の宿村ではなく、その土地の管理区分に従って幕府直轄地では代官が、私領地では大名が責任を負っていた。
③並木には何を植えてた?
五街道では並木が植えられており、樹の種類は植えられている場所の標高によって異なる。
平地では松が大部分を占め、他には杉、竹、落葉樹なども植えられていた。
標高が高くなるにつれ、杉と竹が多くを占めるようになった。
植え方については道の両側に植えることもあれば、片側だけ植えることもあり、バラバラだったようである。
日光街道の杉並木は植える動機が他と異なり、相模国玉縄藩の藩主、松平正綱が徳川家康の菩薩を弔うために自費で20年以上かけて植え続けたといわれている。
その並木杉の長さは約37kmにあり、世界最長でギネス世界記録にも登録されている。(ギネス記録は寄進碑を含まない35kmで認定)
こちらがその並木道。
④荷物持ちと馬の常備で苦しい経営だった?
五街道すべては適当な間隔に宿場を置いて、各宿場に人足(荷物持ち)と荷駄用の馬を常備し、幕府公用の役人の荷物運搬に当たらせていた。
各宿場には幕府から幕府公用のための人馬提供を命じられたが、その見返りとして宿場経営の権利が与えられ、一般客の宿泊や荷物の運送で生計を立てる許可を与えられた。
各街道の交通量に従って宿場に常備する人馬の数が定められており、それが先ほど各街道の詳細に記載した「常備人馬数」となる。人馬常備の負担はかなり大きく、宿場従事者や地元民を苦しめ、経営維持に苦労したと言われていたようだ。
江戸時代後期の道中奉行だった石川忠房は文政5年(1822年)に地元民から再三お願いされていた中山道の日本橋から15番目の宿場である安中宿の人馬提供数の負担を半減させる宿駅制度の改革を行うなどした。
それまでの宿駅制度について改革が実行されたが、時代の変化とともに一般の旅行者が増えることで幕府御用の交通量も増えたことから、これに対応する人足や馬の補充を目的とした制度が作られるなどして住民の負担は増え続けてしまった。
結局、抜本的な改革が行われることなく、幕府が消滅し、明治時代に入るまでの間、幕府御用の輸送を住民の全負担は続いてしまったわけである。
⑤五街道:現在の国道でいうと何処?
ウド時代に整備された五街道は、明治維新で幕府が崩壊した後も、新政府によって国道の経路にして去れ、その道筋は現在の一般国道にも受け継がれている。
- 東海道:国道1号
- 中山道:国道8号、17号、18号、19号、20号、21号、142号
- 日光街道:国道4号と国道119号
- 奥州街道:国道4号
- 甲州街道:国道20号
このような位置づけである。
五街道の覚え方、歌をもある
五街道の覚え方として歌を作ってくれた人がいる。
人によっては歌の方が覚えやすいかもしれないので確認してみてほしいい。
総括:五街道の覚え方について
五街道の覚え方、そして五街道について詳しく解説してみた。
覚え方は「「途中に置こう、五街道」でOKだ。
(と) (ちゅう) (に) (お) (こう)
(順に) 東海道 中山道 日光街道 奥州街道 甲州街道
ぜひ、これを覚えていただけたら嬉しく思う。