八艘飛びの由来やその背景【眉唾ながら義経の凄さが伝わる】

みなさん「八艘飛び」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

もともとは鎌倉幕府成立前の源平合戦での出来事から生まれたもので、日本人のほとんどが知っているだろう有名武将に関係する言葉です。

ことわざなどの類ではないため普段あまり使われない言葉ですが、ここでは「八艘飛び」の由来やそれにまつわるお話を解説します。

記事の内容

  • 八艘飛びの由来やその背景
  • 八艘飛びの読み方
  • 源平合戦の時代背景
  • 兄源頼朝と再会するまでの源義経
  • 伝説上の源義経
  • 平家追討での大活躍
  • 壇ノ浦の戦いと八艘飛び
  • 八艘飛びはヨシツネ伝説の一つに
  • 八艘飛びに関する雑学
    八艘飛びの距離はどれくらい
    武士が甲冑を着込んで八艘飛びをできるのか?
    相撲のきめ技「八艘飛び」
  • 総括

八艘飛びの由来やその背景

「八艘飛び」の由来やその背景

さきほどの「源平合戦」と「有名武将」という2つのキーワードでもう分かった方もいるでしょうが、「八艘飛び」はずばり源義経に関係する言葉です。

八艘飛びの読み方

「八艘飛び」ですがなんと読むのでしょうか。この言葉は「はっそうとび」と読み、分けてみると「八艘」は8つの船を表しており、そこから「八艘の船を飛ぶ」ということが想像できると思います。

それは分かったにせよ、なぜ源義経が八艘の船を飛ぶことと結びついたのでしょうか。そこを読み解くために、源平合戦に至る経緯と源義経について触れておきましょう。

源平合戦の時代背景

日本史の教科書にも登場する治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は1180年から1186年にかけておこった内乱で、一般的には「源平合戦」と言われています。

時代は平安末期で、平清盛を棟梁とする平家が栄華を極めていました。後に源頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた後白河法皇の第三皇子以仁王が、1180年(治承4年)5月に打倒平家のため挙兵(計画は事前に露見)したことから6年にわたる騒乱が始まりました。

8月17日には源頼朝も伊豆で挙兵するなど全国的に反平家の動きが拡大する中、1181年2月に平清盛が熱病で没し、いよいよ事態は混とんとした状況になっていきます。

兄源頼朝と再会するまでの源義経

源平合戦のなか突如として登場してきたのが源義経です。源頼朝の異母弟にあたり、父は平清盛との争いによって敗死した源義朝の9男にあたり「牛若丸」と名づけられました。

母親は常盤御前ですが、あまり身分の高い女性ではなく、源義朝の側室となり今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、牛若を生み、源義朝が敗死したあと公家の一条長成に嫁ぎました。

そして牛若丸11歳の時、僧となるため京都の鞍馬寺へ預けられ「遮那王」と名乗ります。

ここまでの話についても不明な点が多く、後に源頼朝と再会を果たすまでは伝説や言い伝えの類のお話しが中心となってしまいます。それらによると、僧になることを嫌った遮那王は1174年に鞍馬寺を出奔(しゅっぽん:武士が逃走などで行方不明になること)し、自らの手で元服をおこない「九朗義経」を名乗り、東北地方に一大勢力を築いていた奥州藤原氏3代目当主「藤原秀衡」を頼って平泉に向かいます。

どのような繋がりで奥州藤原氏を頼ったのでしょうか。

伝説では奥州に出入りしていた金売吉次という商人の手助けで奥州入りしたとされていますが、母常盤御前の再婚相手である一条長成の従兄の子「藤原基成」が、藤原秀衡の政治顧問をしており、その伝により奥州入りした可能性が高いと言われています。

やがて兄頼朝の挙兵を知った義経は、藤原秀衡の強い引き止めを振りきり平泉を出立し、富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣で涙の対面を果たしました。

伝説上の源義経

伝説上の源義経

源義経は後に兄源頼朝と対立し滅亡するという悲劇性から「判官贔屓(ほうがんびいき)」の語源にもなり、いろいろと伝説的な話が付加されて後世に伝えられました。鬼一法眼(これも伝説上の人物)の娘と通じて兵書「六韜」「三略」を盗み学んだ話や、中には「平泉を脱出し大陸に渡ってチンギス・ハーンになった」などという突飛な伝説まで飛び出します。

有名な話では京都五条大橋(実は五条大橋は当時存在せず)での武蔵坊弁慶との出会いがあります。千本の太刀を集めようと誓い、太刀持ちの武者を襲い999本まで集めた武蔵坊弁慶が、五条大橋で笛を吹きながら通りすがる源義経と出会い決闘を行うという物語です。

大薙刀を振るい襲い掛かる弁慶を軽くいなしながら、欄干から欄干へひらりひらりと飛び移る義経。

ついには返り討ちにあって降参し、義経の家臣となるのですが、この身軽で颯爽とした源義経のイメージは後の「八艘飛び」と大いに関係がありそうです。

平家追討での大活躍

黄瀬川の陣で兄源頼朝と再会し配下に加わった源義経ですが、一足先に平家を都から追い払い狼藉を働いていた(ということにされた)同族の木曽(源)義仲との戦いや、その後の平家との最終決戦で大活躍を続けていきます。

頼朝は鎌倉にあって東国の経営に専念し、弟の源範頼と源義経に遠征軍の指揮を委ねます。範頼は大将軍代理として主に坂東武士の主力を率い、義経は搦手軍(遊撃隊)の大将として主に現地武士を率いたとされています。

1184年1月に宇治川の戦で木曽義仲を打ち破り、ついに都へ入ります。

つい数か月前の九条兼実の日記(玉葉)で「頼朝の弟九郎、大将軍となり数万の軍兵を卒し、上洛を企つる」と名前すら知られていなかった源義経は一躍有名になったのです。

このころ都落ちしていた平家は勢力を盛り返しており、福原(現在の神戸市)まで迫っていました。後白河法皇は平家追討と、平家によって持ち去られていた三種の神器の奪還を源頼朝に命じ、範頼と義経は二手に分かれて福原に陣を構える平家を攻撃します。

一ノ谷の戦いと呼ばれる戦ですが、ここでも源義経は超人的な働きをしています。平家が陣を構える裏山の急峻な崖から70騎ほどの軍勢で奇襲をかけ、平家軍を大混乱に陥りさせ一気に勝敗を決したのです。

「一ノ谷の逆落とし」と言われる奇襲攻撃ですが、これも少しばかり伝説要素が強く、異説も多い伝承です。

この戦で平家一門は多くの有力武将が討たれ屋島へ退却します。翌1185年2月には屋島の平家を打ち破り、いよいよ最終決戦へ進むこととなりました。

ちなみに屋島の戦いでは、後に義経のことを陥れたことにされている梶原景時と「逆櫓論争」といわれる言い争いがあったとされています。

前へ進み勝つことのみを主張する義経にたいし、景時が「進むのみを知って、退くことを知らぬは猪武者である」と言い放ち、義経も「初めから逃げ支度をして勝てるものか、わたしは猪武者で結構である」と言い返しました。

これを景時が深く恨みに思い、後々頼朝への讒言に繋がったと言われております。

平家追討での大活躍

壇ノ浦の戦いと八艘飛び

1185年4月25日、ついに源平合戦最後の戦いである「壇ノ浦の戦い」が始まります。壇ノ浦は山口県下関市と福岡県北九州市の間を隔てる関門海峡の最も狭い場所で、潮の流れがはやいことで有名な海域です。つまり壇ノ浦の戦いは船上での戦いでした。

通説によると序盤は水上での戦に慣れている平家の軍勢が有利に戦を進め、義経はかなり追い込められたと言われています。しかし潮の流れが変わり源氏の軍勢が上流側になったことで戦況が一変し、それに乗じた義経は猛攻をしかけ平家軍は混乱状態となり、戦の趨勢は決しました。

敗北を悟った平家の一門や女性たちは次々と海へ身を投げたと「平家物語」では描写されています。平清盛の力により即位した安徳天皇も女官に抱かれて入水し崩御されました。わずか満6歳4か月で、歴代天皇の中で最も短命でした。

そんな中、平氏一門の中で「王城一の強弓精兵」と呼ばれた平家随一の猛将「平教経」は、「せめて敵の総大将源義経を道連れにと」考え、義経に狙いを定めました。ついに義経の船を見つけそこへ飛び乗ったのですが、それを察した義経は船上で立ち上がると次から次へと船を飛び移り、教経の攻撃から逃げ切ったのでした。このとき8艘の船を飛び移ったといわれ、これが「八艘飛び」の語源となったのです。

あまりにも身軽な様を見た平教経は義経を討つことを諦め、源氏の武者2人を道連れに入水したと言われています。

八艘飛びはヨシツネ伝説の一つに

壇ノ浦の戦いでの「八艘飛び」ですが、「平家物語」では義経が飛び移ったのは1回だけと書かれています。

それがいつの間にか8艘の船を次々と飛び移ったことになり、「八艘飛び」という伝説になったのです。

もし「平家物語」の内容どおりだったら「一艘飛び」になっていたかもしれませんね。

八艘飛びはヨシツネ伝説の一つに

八艘飛びに関する雑学

源平合戦の壮大な歴史と「八艘飛び」については理解できたと思います。

しかし実際に八艘飛びなんてことが出来たのでしょうか。

また源義経とは別に使われる「八艘飛び」についても触れておきます。

八艘飛びに関する雑学

八艘飛びの距離はどれくらい

船を飛び移ったと言われる源義経ですが、それはどのくらいの距離だったのでしょうか。

平家物語には「長刀脇にかいはさみ、みかたの船の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりととび乗り給ひぬ」とあり、その距離が二丈だったことが分かります。丈(じょう)とは尺貫法で3.0303メートルなので二丈は約6メートルの距離です。

中学3年生男子の走り幅跳びの平均記録は約4メートルなので、この二丈という距離がどれくらい凄いことなのか分かるとともに、正直なところ「少し話を盛り過ぎじゃないか?」と思わないでしょうか。しかし平家物語にはそのように書かれています。

武士が甲冑を着込んで八艘飛びをできるのか?

身軽ないでたちでも船を飛び移るのは至難の業ですが、当時の侍が身につけていた装備はどれくらいの重量があったのでしょうか。

この時代名のある武士は「大鎧」という甲冑を身につけていました。その重さは約22キロから26キロくらいあり、さらに太刀などフル装備すると10貫目(約37.5キロ)にもなります。

陸地で戦うのですら辛い重さです。

しかも波の影響もあって不安定な船上では立っているのもやっとだと想像できますが、義経はそれをやってのけたと伝わっています。

ちなみに源義経ですが、大山祇神社に奉納したと伝わる甲冑のサイズから身長は150センチ前後だったと考えられており、それを考えるとさらに現実味が薄れてしまいます。伝説とはこのようなものなのです。

相撲のきめ技「八艘飛び」

源義経の身軽さを表した「八艘飛び」という言葉ですが、相撲の技として現在も使われています。立合いと同時に大きく横に飛び上がり、相手の突進をかわして横や背後に回り込むことを言い、どちらかというと小兵力士が大きな相手に立ち向かうときに使われる技です。

君ケ浜親方が小学生のころ舞の海の胸を借りる機会があり、その時に「八艘飛び」をくらったことで「プロの厳しさを舞の海さんに教えていただいた」という親方に、舞の海さんは「八艘飛びなんて、そんな卑怯な技から何も学ぶことはないんですけど、大人げなかったですね」と言っています。

つまり、どちらかというと正攻法じゃない技だということが分かります。

総括:ちょっと眉唾ながら義経の凄さが伝わる「八艘飛び」

八艘飛び

今回は「八艘飛び」について、その言葉が生まれた背景から"その瞬間"まで解説してきました。

よく調べるほどに現実味が薄れてしまう伝承なのですが、それほどまでに源義経が日本人の中で愛されてきたという事実の裏返しと言えるでしょう。

たとえ現実味がなくても源義経と八艘飛びが色あせることはないのです。

 

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