2021年10月26日、秋篠宮家の長女眞子内親王が小室圭さんと御結婚され、皇族ではなくなりました。
このように皇室を離れることを「皇籍離脱」や「臣籍降下」と言いますが、眞子さんだけではなく、これまでも多くの皇族が皇籍離脱されており、その中の一人が島津貴子さん(以下、敬称を略します)です。
ここでは島津貴子の生き方を見ていくことで、皇室と日本国民との距離感の変化や、彼女の人となりなどを解説します
記事の内容
- 皇族から島津貴子への軌跡
- 第124代天皇家に生まれた
- 島津貴子の姉や兄
- 新時代の象徴としてブームに
- 島津貴子が結婚で世に与えた影響
- プリンスホテルで働いた
- 異色の元皇女と言われた島津貴子
- 島津貴子の夫と子供
- 長男は聾唖という噂
- 孫はいるのか
- 島津貴子の自宅
- 家系図
- 画像で振り返る島津貴子
- 現在の様子
- 改めて注目されている島津貴子の生き方
皇族から島津貴子への軌跡
島津貴子は見て分かるように「島津家」に嫁いで島津姓になったのですが、皇族であったときの名は「清宮貴子(すがのみやたかこ)内親王」でした。
今でこそ国民主権の日本で「象徴天皇制」が当たり前のことになりましたが、島津貴子が生まれた時代は「天皇主権」であり、皇族の重みも今とは比べものになりませんでした。
まずは島津貴子の時代は背景を含めた生い立ちから、皇籍離脱した後の歩みについて、時を追いながら見ていきましょう。
第124代天皇家に生まれた
島津貴子が生まれたのは1939年(昭和14年)3月2日、時間は午後4時35分と伝わっています。父は時の昭和天皇、母は皇后で、天皇家の第5皇女として誕生しました。今の感覚でいうと今上天皇(現在の天皇)に子供が生まれることに違和感も覚えますが、昭和天皇は父・大正天皇が崩御し天皇に即位したとき25歳であり、その時点で子供は生まれたばかりの長女・照宮成子内親王だけでした。
島津貴子は第5皇女であるとともに天皇家の末子であり、生まれて7日目(御七夜)の3月8日に命名の儀が執り行われ、万葉集を由来とする「清宮貴子」と命名されました。
皇室の慣習では内親王は学齢期になると両親と別居して養育されることとなっており、3人の姉もそれぞれそうされたが、島津貴子は天皇のもとで育てられたまま学習院大学文学部イギリス文学科へ進学しました。
島津貴子の姉や兄
島津貴子は昭和天皇の末子として誕生し、6歳上(学年では5年違い)の兄は皆さんご存知のように上皇明仁です。昭和天皇と香淳皇后(良子女王)の間には2男7女の子女が生まれ、6か月で夭逝した第2皇女の久宮祐子内親王を除き、6人が成人しました。
続柄 | 御称号 | 生年月日 | 備考 |
第一皇女子 | 照宮成子内親王 | 1925年(大正14年)12月6日 | 戦後皇室を離脱し東久邇成子となる。1961年7月23日死去(満35歳) |
第二皇女子 | 久宮祐子内親王 | 1927年(昭和2年)9月10日 | 1928年3月8日夭逝 |
第三皇女子 | 孝宮和子内親王 | 1929年(昭和4年)9月30日 | 皇籍離脱後は鷹司和子。1989年58月26日死去(満59歳) |
第四皇女子 | 順宮厚子内親王 | 1931年(昭和6年)3月7日 | 皇籍離脱後は池田厚子。存命中で2017年まで伊勢神宮祭主あ(現在は黒田清子) |
第一皇男子 | 継宮明仁親王 | 1933年(昭和8年)12月23日 | 第125代天皇(現上皇) |
第二皇男子 | 義宮正仁親王 | 1935年(昭和10年)11月28日 | 存命中。皇位継承順位3位 |
第五皇女子 | 清宮貴子内親王 | 1939年(昭和14年)3月2日 |
兄の明仁親王と仲が良かったようで、明仁と正田美智子が出会うことになった軽井沢でのテニス大会も、島津貴子が兄を誘って連れて行きました。
つまり島津貴子が今の皇室の姿に与えた影響はとても大きいものがあるのです。
皇室を離れた島津貴子ですが、実家である天皇家とは連絡を密に保たれているようで、兄である平成天皇ご夫妻を慰労するため、別荘へ招待し歓談する時間をもっていました。
新時代の象徴としてブームに
島津貴子は天皇家末子であったこともあり明るく飾らない人柄で、自由な発言が度々世間の注目を集め、清宮の頭文字「ス」と、貴子の頭文字「タ」を合わせた「おスタちゃん」の愛称で呼ばれ、国民から親しまれていました。
1959年3月2日、成人となった島津貴子は記者会見を行いました。兄の皇太子明仁親王と正田美智子の婚礼を1ヶ月後に控えた時期だったこともあり、「どのような男性が理想ですか」という質問をされました。
これに対し島津貴子は「私の選んだ人を見てくださって」と言ったのですが、この発言は良い意味で大きな反響を呼び、当時の流行語にもなりました。
実は島津貴子がこの発言をしたとき、すでにお見合いで結婚相手は決まっており、会見のわずか17日後の3月19日に毎日新聞のスクープで島津久永との婚約が明らかになりました。
その時の島津久永は日本輸出入銀行(現在の株式会社国際協力銀行)に勤務するサラリーマンで、「お見合いで”平民”と結婚する」島津貴子と、「恋愛結婚で”皇族”と結婚する」正田美智子という、きわめて対照的な慶事で皇室報道が華やぎ、国民にも明るい出来事と認識されました。
こうして島津貴子は正田美智子とともに、そのファッションや言動などが世間の注目を集め続け、ひとつの「ブーム」と呼べるような状況となったのです。
島津貴子が結婚で世に与えた影響
皇太子夫妻の婚礼とともに世間の注目を浴びた島津久永と貴子の結婚は、戦後日本の歩みの中で「男女平等」「恋愛結婚」「自由」といった新時代の象徴として、特に若者の人気が高く、結婚後の島津貴子の自宅に野次馬が詰めかけるなど、多くの注目を集め世間にも影響を与えました。
新婚旅行では島津家の墓参を兼ねて宮崎県を訪問しました。今では考えられないことですが、この旅行にはマスコミも同伴して取材をし、途中の客船上では神津善行と中村メイコ夫妻とともにテレビに出演するなど、島津貴子のファッションとともに日本中の注目を浴び続けたのです。
また新婚旅行の報道は、高度経済成長期に入り余裕の出始めていた日本人の「観光ブーム」にも大きな影響を与えました。
プリンスホテルで働いた
夫・島津久永の海外転勤のためアメリカ生活を2年間経験した島津貴子は、帰国後にインテリアコーディネーター資格を取りました。その資格を活かせるということで1970年から、東京プリンスホテル内の服飾店「西武ピサ」で働くことになりました。
島津貴子の勤務は毎週火・水・木曜日の午後1時から午後5時までという契約社員だったのですが、さすが元皇族だからなのか会社からはハイヤーが支給されていたようで、その異例の厚遇ぶりが分かります。
ただ元皇族、しかも今上天皇の皇女だった島津貴子が民間企業で働くことには賛否があり、宮内庁は「私企業で働くことは好ましくない」と表明しています。しかし当の島津貴子は、賛否があることを承知しつつ意欲的に働きました。
その後もプリンスホテルで働き続けた島津貴子は、1989年からプリンスホテルチェーンの顧問取締役となり、2005年まで取締役を続けました。また取締役退任後もアドバイザーとして相談を受ける立場でいたのです。
異色の元皇女と言われた島津貴子
長い天皇家の歴史にあって、島津貴子は前例のない道を歩み続け、「新しい時代の皇族」のパイオニアとも言える存在です。
そのような島津貴子は時には憧れの存在であり、時には大きな非難を浴びせられる存在でもありました。
元皇女として「異色の存在」と言われた島津貴子の様々な言動や、家族の存在、そして現在の様子などを見ていきます。
島津貴子の夫と子供
1960年(昭和35年)3月10日、清宮貴子内親王が島津久永と結婚し島津貴子となりました。世間では「皇女が平民に嫁ぐ」という受け止め方が多かったのですが、島津久永とはどのような人物なのでしょうか。
島津久永は1934年3月29日、島津久範の次男として生まれました。父の久範は薩摩藩第12代藩主島津忠義の七男で、その後旧佐土原藩主島津忠麿の養子になった人物です。公爵家に生まれ伯爵家の養子となった元華族の家柄なので、「平民」というには違和感があります。
島津久永は1957年学習院大学を卒業後、日本輸出入銀行へ入社し、ワシントンやシドニーなど海外勤務も経験して、審査部長にまでなりました。その後1987年(昭和62年)からはソニーへ移り、3年後には取締役となり、最後は2003年から2015年まで山階鳥類研究所に所属していました。
1962年4月5日、島津貴子と久永の間に長男禎久が生まれています。親の海外赴任に同行し、シドニーの高校を卒業しており、その後もアメリカでフォトグラフィーやビジュアルアーツを勉強しました。現在はカナダに在住し、写真家として活動しています。
長男は聾唖という噂
島津貴子の長男・島津禎久には「聾唖(ろうあ)」という噂があります。聾唖とは生まれつき、または生後3年以内に重度の聴覚障害となり、言語学習ができなくて発語障害のある状態を言います。この噂は、主に日本の皇室に否定的な人たちが”まことしやか”に言っていることですが、確たる証拠があるわけでもありません。
島津禎久はカナダ人女性と結婚し、写真家としての活動で障碍者にスポットを当てた作品を発表していますが、彼のコミュニケーション能力を見ていると、聾唖というのは「悪い噂」に過ぎないのでしょう。
孫はいるのか
島津貴子には子供は長男・島津禎久しかいません。その禎久は1994年に同じ歳のカナダ人女性マリージョゼ・フジェールさんと結婚しました。「昭和天皇の孫が国際結婚」と話題になったのですが、母である島津貴子も「我々もとてもハッピーです」と大喜びで、自由奔放な「おスタさん」らしい反応です。
結婚した島津禎久とマリージョゼの間には2人の女の子が生まれ、この子たちが島津貴子にとって孫にあたります。現在もカナダに在住する島津禎久とその家族ですが、日本の皇室の血が異国でも受け継がれていく、なんとも不思議な現実なのです。
島津貴子の自宅
1960年、島津貴子の結婚は世間の注目を集めました。その一挙手一投足で国民的ブームになったのですが、今では考えられないくらい規制が甘く、新婚で住むことになった場所に数千人の野次馬が押し寄せることもあったのです。
その新居は東京都世田谷区上野毛でした。当時はまだのんびりとした時代だったようで、後年(1965年)島津貴子と江利チエミとの対談で語られているところでは「島津邸を通り五島美術館へ寄り、江利チエミ・高倉健邸へ向かう」というコースが、観光コースのようになっていました。
家系図
元皇族である島津貴子の家系図を見ると、当然のことながらそこに連なる人たちは皇族の方ばかりです。しかし違った角度で見ると面白い事実があるのです。それというのも、島津貴子の母は香淳皇后ですが、香淳皇后の母親は島津忠義の令嬢なのでその孫にあたります。そして島津貴子の夫・島津久永も島津忠義の孫にあたるので、かなり島津家の血が濃いことが分ります。
画像で振り返る島津貴子
島津貴子は皇族の中でもメディアへの露出が多く、いろいろな写真が残されています。ここでは何点かの画像を見ていきましょう。
これらは幼少期、すなわち清宮貴子内親王時代の写真で、その表情から明るい性格であることが見て取れます。
結婚会見を行う島津貴子と夫の久永です。とても晴れやかで、先般おこなわれた小室眞子さんの会見とは対照的です。
その結婚が世間の注目を浴び、野次馬が自宅に押寄せていたころの島津貴子夫妻です。時代背景もあるでしょうが、写真に納まるその姿には余裕すら感じます。
現在の様子
島津貴子は現在、東京都港区南麻布で夫の島津久永と二人で暮らしています。皇室から平民に嫁がれ、民間企業で働くという「先駆者」として、兄平成天皇(現上皇)の一人娘・紀宮清子内親王が結婚する際に相談を受けられました。
一般的に言うと叔母と姪の関係ですが、皇室ともなると「皇籍離脱した一般人」とはいえ、どうしても世間の目というものがあり、島津貴子も「元皇族」としての品位を保ったまま暮らしているのです。
総括:改めて注目されている島津貴子の生き方
記事のポイントをまとめておきます。
島津貴子誕生から結婚後のブーム
- 昭和天皇と香淳皇后の末っ子として誕生
- 幼少時より明るく兄と正田美智子さんを出合わせた島津貴子
- 飾らない人柄で国民から「おスタちゃん」と親しまれた島津貴子
- 島津貴子が平民と結婚し一大ブームを起こす
結婚し異色の道を歩んだ島津貴子
- 今では考えられないマスコミへの露出
- 民間企業で働いた島津貴子
- プリンスホテルの取締役
島津貴子の家族と現在
- 夫・島津久永は薩摩藩主の末裔
- 一人息子・島津禎久と聾唖という噂
- 国際結婚した島津禎久と2人の孫
- 今も皇族としての品位を保った暮らし
島津貴子は天皇家に生まれながら、それまでの皇室の常識を打ち破った先駆者として、また明るく飾らない人柄で多くの国民に慕われました。最近は眞子内親王と小室圭さんの結婚に関して、改めてその生き方が注目された島津貴子です。
しかし「平民との結婚」や「海外での暮らし」といった表面的なことばかり比べられますが、実は皇室のことを考え、兄明仁上皇夫妻を陰ながら支えていた事実はあまり知られていません。自由闊達なイメージが付きまとう島津貴子の、実はしっかり皇室のことを考えた行動を、小室眞子さんも見習ってほしいと多くの関係者が思っていることでしょう。
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