富永恭次は能も無いのに出世する不幸を体現した男

1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾して無条件降伏することになりました。第二次世界大戦(太平洋戦争)の終結です。戦後になり、無謀な戦争を引き起こした責任を帝国陸軍に求める風潮(陸軍悪玉論)が強くなると、自然に無能軍人たちの話が話題になりました。

富永恭次は「無能」というレッテルを張られた陸軍将校の代表的な人物の一人で、寺内寿一大将・牟田口廉也中将らとともに「陸の三馬鹿」とも言われています。また東条英機のお気に入りで分不相応な出世をしたと思われており、彼のことを「東條英機の腰巾着」と呼ぶものもおります。

ここでは富永恭次の何がそう言わせどのような失敗があったのか、彼の事績を追いながら「富永恭次の問題点」を解説していきます。

富永恭次

記事の内容

  • 富永恭次の帝国陸軍での軌跡
  • 富永恭次の生い立ちと東條英機のとの出会い
  • 最初の汚点
  • 陸軍省勤務時代
  • 後ろ盾を失い戦争の前線へ
  • フィリピン・マニラ着任後の冨永恭次
  • 芸者を連れて敵前逃亡?
  • 富永恭次を揶揄した替え歌
  • 処分と戦地送り
  • 富永恭次の息子
  • 終戦後の富永恭次
  • 戦後はシベリア抑留
  • 帰国後に敵前逃亡で激しい批判
  • 富永恭次の最期と子孫について
  • ニコニコで見かける富永恭次
  • 能も無いのに出世する不幸を体現した富永恭次

富永恭次の帝国陸軍での軌跡

富永恭次は最終的には陸軍中将にまで出世しており、つまりは一定の影響力を及ぼせる立場だったわけです。

上が判断を誤れば苦難を強いられるのは末端の将兵であり、それがゆえに非難に晒されるのは組織の掟とも言うべきことです。

まずは富永恭次が「陸の三馬鹿」と言われるまでの影響力を持つに至る過程を、生い立ちや帝国陸軍での経歴を中心に追ってみましょう。

富永恭次:帝国陸軍

富永恭次の生い立ちと東條英機のとの出会い

冨永恭次は1892年(明治25年)1月2日、長崎県で医師・富永吉太郎の二男として生まれました。熊本陸軍幼年学校から陸軍中央幼年学校(後の陸軍予科士官学校)を経て陸軍士官学校へ進みました。

陸軍幼年学校とは幼少期から幹部将校候補を育てるため帝国陸軍が設置した全寮制の教育期間で、富永恭次は本人の意志かどうかは別にして陸軍士官を目指していたことが分ります。帝国陸軍の「エリートコース」と言えるでしょう。

1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校を卒業(25期生)し、歩兵少尉に任官されたのち陸軍大学へ入学、1923年(大正12年)11月に卒業(35期生)となりました。ここから分かることは少なくとも周囲から期待されていた富永恭次像です。

その後参謀本部や駐ソ連駐在武官などを経験しながら昇進していき、1936年(昭和11年)8月に大佐となり参謀本部第2課長となりました。翌1937年1月、関東軍司令部付に転属し3月には関東軍第2課長に就任したのですが、ちょうど同時期に東條英機が関東軍参謀長になり、ここから富永恭次と東條英機は昵懇の仲になったと言われています。

最初の汚点

冨永恭次の経歴は順調で、1939年3月に陸軍少将に進級し参謀本部第4部長、そして9月には作戦を担当する第1部長に任ぜられました。

1940年になるとドイツ軍がフランスに侵攻しましたが、日本は当時日中戦争で戦っていた蒋介石の国民党軍への補給ルートとなっていたフランス領インドシナ(仏印)へ進出する好機だと捉え、インドシナ政府と交渉をします。

この時期冨永恭次は現地指導のため仏印に出張しており、日本を発つ際に昭和天皇から「交渉が期限前に妥結した場合はくれぐれも平和進駐をするよう」言い含められていたのも関わらず、冨永恭次の頭の中は「武力進駐」しかありませんでした。

富永恭次:最初の汚点

1940年9月2日、冨永恭次は南支那方面軍司令官に独断で「仏印攻略準備」の参謀総長指示(大陸指)を発しました。これは現地で交渉を行っていた軍事顧問団の西原一策少将を完全に無視した暴走で、平和的な協定成立後もそれを知りながら、武力進駐の行動を開始していた陸軍部隊を制止なかったため、結果的に中央の意思を無視した武力衝突を引き起こしました。これが「北部仏印進駐」といわれるものです。

結果的にこの後の「南部仏印進駐」にもつながり、当時行われていた日米交渉においてアメリカ合衆国の態度を硬化させることになったので、日米開戦を決定づける原因の一つとも言えます。

日本に帰国した冨永恭次は度重なった独断専行を咎められ、参謀本部第1部長を更迭されました。日ごろ冨永恭次に目をかけていた陸軍大臣の東條英機でしたが、さすがにこの越権行為を見過ごすわけにもいかず、「冨永のような人材は惜しいがやむを得ない。他日を期して、本人には元気を出して謹慎するように伝えよ」と冨永恭次に伝えさせたと言います。

陸軍省勤務時代

更迭され陸軍中央を外された冨永恭次ですが、翌1941年4月に陸軍省人事局長として中央復帰を果たします。これは陸軍大臣・東条英機の力によるもので、これに恩を感じた冨永恭次は「東條英機の腰巾着」と言われるほど東條英機に忠勤を尽くすようになります。東條英機もそれを狙っての人事だったと言われています。

1941年11月に陸軍中将となり、1943年3月には陸軍次官と人事局長事務取扱を兼務するようになり、総理大臣となっていた東條英機の後ろ盾のもと陸軍省で権勢を誇ります。冨永恭次だけではなく、東條英機の偏った人事は陸軍内に歪みをもたらし、冨永恭次も怨嗟の的となっていきました。

後ろ盾を失い戦争の前線へ

総理大臣・東條英機の威を借り、強権的に振舞っていた冨永恭次に転機が訪れたのは1944年(昭和19年)7月のことです。

東條英機が「自信がある」と公言していたマリアナ諸島の防衛があっさり崩れ去り、参謀本部ですら「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく」と予想するほど戦況が悪化したことから、7月18日に東條内閣は総辞職しました。

東條英機という後ろ盾を失った冨永恭次は7月26日に参謀本部附となり、8月30日には新しく陸軍大臣になった杉山元陸軍大将の人事で、フィリピン方面の航空決戦を担う第4航空軍の司令官として転出しました。

陸軍大学卒業後は3年ほどの部隊経験しかなく実践経験もない冨永恭次のこの人事は、陸軍内でも思いもかけない人事という評判でした。事実上の左遷人事と言えるでしょう。

富永恭次:戦争

フィリピン・マニラ着任後の冨永恭次

1944年9月4日にフィリピン・マニラに着任した冨永恭次は、レイテ決戦に備え精力的に指導したものの、第4航空軍の現地将兵にとっては迷惑な存在であったようです。

人となりや功績など分らぬまま感状を乱発したり、総攻撃の当日に前線飛行場で将兵を集めた大げさな命令伝達(命課布達式)をしたり、周囲からも「迷惑」「奇矯」と思われる多くの行動が見られました。

10月になると陸軍で初めての特攻隊「万朶隊(ばんだたい)」が第4航空軍の指揮下に入り、富永恭次が特攻隊を送り出すことになります。

戦後になり富永恭次の悪評が広まっていくなかで「特攻せずに帰還したパイロットを罵倒した」という話がありますが、これは事実とは違うようで、特攻という戦法に終始反対し9回出撃して全てで生還した佐々木友次のよる証言では、「貴様、そんなに命が惜しいのか」などと罵倒したのは参謀長の猿渡篤孝大佐です。

富永恭次:フィリピン・マニラ

富永恭次は本心かどうか別にして「決して死ぬことが目的ではない」と特攻隊員に言っていたとされ、陸軍中央への援軍要請も「通常攻撃部隊」を望んでいました。しかし送られてくるのは特攻隊ばかりであり、彼らを出撃させ続けた富永恭次は心身を病んでいきます。

1944年12月からは不眠症が悪化し、病床に臥すことが多くなり、12月31日と翌1945年1月3日の2度にわたり「病気のため指揮がとれない」と司令官職の更迭を願い出ますが却下されています。

この時期、フィリピンでの戦況は悪化の一途を辿っており、持久戦のためマニラから北部ルソンへの移転を要請する第14方面軍・山下奉文陸軍大将に対し「ルソンに転進し持久戦などするのであれば特攻させた死なせた部下に顔向けできん」と強硬に主張し、この時はあくまでマニラ死守を考えていたようです。

芸者を連れて敵前逃亡?

1945年1月、それまでマニラ死守を主張していた冨永恭次も、遅々として進まない防衛準備と自身の病状から決心に揺らぎが生じ、1月7日になりルソン撤退を受け入れることにしました。

第4航空軍司令部はすぐさま移動を開始し、1月10日にルソンのエチゲアに到着しましたが、実は司令部後退は第4航空軍の配下部隊に事前に何も知らされておらず、司令部への不信を抱き始めたと言われています。

1月中旬、第4航空軍の隈部正美参謀長以下の幕僚は台湾後退を考えていました。後退するためには南方軍を通じて大本営の承認を得る必要があるのですが、1945年1月16日に事件は起こってしまいます。

冨永恭次が部隊視察の名目で、麾下部隊を置き去りにして台湾へ移動してしまったのです。敵前逃亡そのものです。冨永恭次は後に「隈部正美参謀長に騙された」と語っていますが真偽のほどは分かりません。

置き去りにされた第4航空軍の将兵は悲惨な末路をたどり、各地の激戦地に投入され、その大部分が戦死しました。

冨永恭次に対する憤りが強かったこともあり、この敵前逃亡の様子について「芸者を連れて逃亡した」や「飛行機の積荷はウィスキーだった」など、まことしやかに語られますが、これらは誤解であったり、他の司令官の脱出の際の逸話をすり替えられたり、事実とは異なります。

富永恭次を揶揄した替え歌

冨永恭次の敵前逃亡はフィリピンに残された将兵の怒りを買い、やがて将兵の前で偉そうに訓示を垂れていたことから嘲笑へ変わったと言います。そんな彼らは軍歌「若鷲の歌」の替え歌を考え、その替え歌で冨永恭次の卑怯ぶりをあざ笑いました。

「命惜しさに富永が 台湾に逃げたその後にゃ 今日も飛ぶ飛ぶロッキード でっかい爆弾に 身が縮む」と歌われました。

本来であれば、こんな替え歌で嘲笑うくらいでは済まされない冨永恭次の敵前逃亡ですが、残されやがて散っていった将兵にはこれくらいの事しか出来なかったのです。

処分と戦地送り

大本営の許可もなく敵前逃亡した冨永恭次の行為は大変な怒りを買いました。軍において敵前逃亡は死刑に相当する重大な罪ですが、冨永恭次への処分は「心身消耗が甚だしく現職に堪えないものと認め」、予備役への編入という軽いものでした。

この処分は厳正さを欠くという批判もあるものの、これ以外の事例でも高級将校への処分は軽く、下士官への処分は重いという、当時の軍の悪い習慣そのままと言えます。

予備役に編入された富永恭次でしたが、本土決戦に備えるため編成された通称「根こそぎ師団」の第139師団長として現役復帰させられたうえ満州へ送られました。

そこで敗戦を迎えソ連軍と交戦することなく降伏したのですが、富永恭次が陸軍中央や関東軍に在籍していたこともありモスクワへ送られ、ルビャンカの監獄で6年間も厳しい尋問が続けられました。

富永恭次:処分

富永恭次の息子

冨永恭次には靖という長男がいました。父と同じく帝国陸軍へ入り、冨永恭次が陸軍次官として権勢を誇っていたときは、その父の力で落ちていたはずの「特別操縦見習士官(特操)」試験に合格したと言われています。

そんな冨永靖は敵前逃亡した父とは違い、立派な最期を迎えました。1945年3月29日、少尉となっていた冨永靖は特攻隊である第58振武隊に編入され、5月25日朝4時50分都城東飛行場より出撃し帰らぬ人となりました。

父のことなど多くを語らず出撃した冨永靖ですが、父冨永恭次の敵前逃亡で傷が付いた家の汚名を雪ぐため、相当な決意をもって出撃したことは想像に難くありません。享年22歳でした。

富永恭次:息子

終戦後の富永恭次

将兵を戦地に残したままフィリピンから逃亡するという恥さらしな行動で予備役にされ、さらに厄介払いされるかの如く満州に飛ばされた富永恭次は、そこで終戦を迎えることになりました。

戦時中、帝国陸軍内では知られていた「恥知らずな敵前逃亡」はやがて国民の知るところとなり、国内ばかりかアメリカやイギリスの軍関係者や研究家から「無能」「馬鹿」などと言われるようになりました。

そんな終戦後の富永恭次の軌跡について見ていきましょう。

富永恭次:終戦後

戦後はシベリア抑留

富永恭次は敗戦後、モスクワのルビャンカ監獄で尋問を受け、1952年1月にモスクワ軍管区の軍法会議で懲役75年の判決を受けシベリアへ送られました。

そこでは看守からの暴力を受けながら、「枕木1本に日本人死者1人」と言われたくらい過酷な重労働をさせられ、その影響で1954年春に高血圧症から脳溢血を発症して入院したのです。

医師から労働不能との診断を受けた結果、1955年収容所から解放されて日本へ帰国しました。

富永恭次:シベリア

帰国後に敵前逃亡で激しい批判

富永恭次が帰国後に待っていたのは、敵前逃亡を含めた軍人の風上にも置けない卑怯な行動を糾弾する国民の声と、見殺しにされた第4航空軍将兵の生存者や遺族からの厳しい非難でした。

富永恭次は特に反論を行うことなくすごし、1955年シベリア抑留の実態を聞くため国会に招致された際も次のように語っています。

「私に対する世間の批評がきわめて悪いということについて申し上げてみたいと思います。フィリピン航空戦に関するいろいろ私に対する悪評は、最近いろいろサンデー毎日とか何とかいうところで拝見いたしました。皆、私の不徳不敏のいたすところでございまして、私としては、この敗軍の将たる私が、別に私から御説明申すことは一言もなく、ただすべて私の不徳不敏のいたすところと、深く皆様方を初め国民の各位におわびを申すほかはございません。みな私の至らぬ不敏不徳の結果でございまして、いかなる悪評をこうむりましても、私としては何の申し上げようもございません。この点は、私は一身をもってこの責任を負いまして、すべての悪評はすべて一身に存することを覚悟いたしております。この間のサンデー毎日なんかにも、私の信頼する幕僚にあたかも罪あるがごとくに書いてございましたけれども、これは全くそうではございません。私が皆悪いために、ああいう批評を受ける次第でございます。どうかそのおつもりで、私の周囲の者に何らの罪もなければ、何らの責任もなく、すべて私が負うべき責任でございます。この点はくれぐれも御了承をお願いいたします。」

引用:第43回国会議事録

一部取材に対して「隈部正美参謀長に騙された」と敵前逃亡を否定した富永恭次ですが、公には同じく「陸の三馬鹿」と言われた牟田口廉也中将ほどの見苦しさはありませんでした。

富永恭次の最期と子孫について

富永恭次は帰国後、様々な誹謗中傷に晒され生きていました。シベリア抑留時の過酷な労働も影響してか、帰国5年後の1960年に東京都世田谷区の自宅で心臓衰弱のために亡くなりました。享年68歳です。

富永恭次には妻セツとの間に長男靖を授かりましたが、その靖も1945年に特攻隊の一員として亡くなり、血を受け継いだ子孫は残りませんでした。2人いた弟はともに海軍軍人で、末弟の富永謙吾は戦史研究家となり、太平洋戦争に関する多くの事績を残しました。

ニコニコで見かける富永恭次

ニコニコで富永恭次を調べると「上司のいう事が聞けずいっつもキレる困ったちゃん 帝国陸軍三馬鹿第二の刺客 東條おじさんの腰ぎんちゃく 左遷先で遊郭三昧の癖に部下にはすっげえパワハラする人間の屑」と、彼の悪い面が殊更協調された解説です。

それとともに下のような「富永恭次像」が見受けられ、さすが「陸の三馬鹿」と酷評された男の末路だと思わざるを得ません。

 

富永恭次:ニコニコ

総括:能も無いのに出世する不幸を体現した富永恭次

記事のポイントをまとめておきます。

富永恭次の順調だった人生前半

  • 医者の息子として長崎に生まれ軍人の道へ
  • 東條英機と出会い出世の道へ邁進
  • 日本を戦争に引きずり込む原因の一つをやらかす
  • 東條英機の腰巾着といわれた陸軍省時代

暗転しだした富永恭次の歩み

  • 後ろ盾「東条英機」の失脚で左遷の憂き目に
  • 能力なき第4航空軍の司令官として
  • 特攻隊を送仕出し続け精神を病む小心者
  • 陸軍史の汚点「敵前逃亡」
  • 父と違い立派に散った息子「富永靖」

終戦後の富永恭次

  • 飛ばされた先で敗戦しシベリア抑留
  • 帰国後は非難の的となった富永恭次
  • 牟田口廉也と違った態度
  • シベリア抑留の交渉もあり68歳で死去

富永恭次の軌跡を見ていると、分不相応な地位についてしまった人間の不幸が凝縮された人生だと言えます。世では「陸の三馬鹿」や「敵前逃亡をした卑怯者」という評価が定着しており、実際にそう言われても反論できない富永恭次の行動でした。

しかし富永恭次を知る人の中には「これほど温情と勇気がある軍司令官なら」と言うものがいたのも事実なのです。生まれる時代を間違ったかもしれない富永恭次ですが、少なくとも”あの時代に生まれた高級軍人”としては、何とも情けない男だったと言わざるを得ない男です。

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