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大室寅之祐が明治天皇であるという説の本質【フルベッキあり】

古来、高貴な人や権力保持者には影武者がいたという噂がある。武田信玄しかり、織田信長しかり。

しかし、日本の歴史上、影武者ではなくすり替わってしまったのではないかと噂されるのが「明治天皇」である。明治天皇が、大室寅之祐という長州出身の武士にすり替わってしまったというのである。

いくら調べを尽くそうとも、事の真偽を明らかにするのは大歴史家でも難しいであろう。

本記事は、本件の真偽を問いただすものではない。なぜこのようなすり替え説が生じたのか、その背景に焦点を当てていきたい。そのことにより、「明治」という近代化に大きく舵を切る、日本史の転換点の時代背景について、考察したいと考えている。

簡単な流れ

  • 大室寅之祐は明治天皇であったという説の背景(幕末)
  • 長州と薩摩の強力な権力
  • 大室寅之祐は奇兵隊員出身
  • 孝明天皇暗殺という陰謀
  • 大室寅之祐と長州(古代~南北朝)
  • 長州は政治家輩出大国
  • 朝鮮と長州(大室寅之祐は朝鮮人)
  • 南北朝
  • 大室寅之祐とはどんな人物か
    大室寅之祐の容姿(フルベッキ写真)
    大室寅之祐の家族(父親は誰?)
  • 明治天皇は大室寅之祐ではなく箕作奎吾
  • 総括:大室寅之祐が明治天皇であるという説の本質

大室寅之祐は明治天皇であったという説の背景(幕末)

明治天皇が、実は長州出身の大室寅之祐という人物だったという説は、いくつかの陰謀説とともに、まことしやかに囁かれている。

本記事では、事の真偽を明らかにするもではないが、明治天皇すり替え説がささやかれる背景を、下記の観点で整理しておきたい。

  1. 長州と薩摩の強力な権力
  2. 大室寅之祐は奇兵隊員出身
  3. 孝明天皇暗殺という陰謀

なぜ、このような陰謀説が存在するのか、その背景には明治の新時代において権力を持ち、政治をコントロールする者の異常な強さが背景となっていると推察する。

長州と薩摩の強力な権力

明治天皇のすり替えは、長州と薩摩という幕末の雄藩の存在が関係しているという説がある。

文献をあたったが、やはり真偽の程は不明である。

一方で、薩長の両藩が幕末から明治にかけて、新政権樹立、その後の新政権運営に絡んでいたかは、なぜこのような陰謀説が薩長と関係しているのかの、ひとつの目安になると考える。

史実として、300年近く続いた江戸幕府から政権を天皇に返還させ、その後の維新の礎を築いたのは、薩摩と長州である。

説明するまでもなく、土佐の坂本龍馬による薩長同盟の成立から、倒幕、大政奉還、新政府樹立へと進むプロセスに、薩摩と長州の両藩の武士が多く関与しているのは周知の事実である。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文など。

特筆すべきは、明治新政府の主要ポジションに、薩摩と長州の出身者が多く占めていることである。明治新政府の政治は、事実上薩長によってコントロールされていたと言える。

上記のことから、長州が政治をコントロールする意味合いで、すり替えを行わせたという説がでてくる背景があるのだろうと推察する。

事実、明治新政府は藩閥政治ともいわれ、革命の果実を薩長が独占していたと批判的に捉える向きは、その当時も現在も一定存在する。

大室寅之祐は奇兵隊員出身

明治天皇は大室寅之祐だと言われ、大室寅之祐は長州の奇兵隊員であったという噂もある。ゆえに「奇兵隊天皇」とも言われる。

長州の奇兵隊は、下関戦争(長州と、イギリス、オランダ、アメリカ、フランスの連合軍の戦い)の後、高杉晋作が中心となり、下級武士と庶民混成の戦闘部隊である。

実はこの奇兵隊に、若かりし日の明治新政府の元勲、山県有朋がいた。

巷に出回っている大室寅之祐は奇兵隊員であったという資料や書籍が、どこまでの確証をもっているのかは定かではない。

しかし、このように幕末の長州を象徴する奇兵隊と、明治天皇のつながりを持たせておけば、政権運営がスムーズになる可能性はあったかもしれない。

孝明天皇暗殺という陰謀

明治天皇の父親である孝明天皇は121代天皇であったが、35歳という若くしての死は、謎に包まれている。

孝明天皇の暗殺説に登場してくるのは、公家出身で明治新政府の重要なポジションに就いた岩倉具視と、薩摩の大久保利通である。

孝明天皇は、幕末において攘夷を唱え続けた人で、どちらかというと幕府と協力することを考えていた。そのため、討幕派から疎ましく思われるのは想像に難くない。

このように、薩摩と長州を中心とする倒幕勢力が、自分たちでコントロールできる天皇の擁立を急いだという邪推につながっていくのである。

大室寅之祐と長州(古代~南北朝)

大室寅之祐が明治天皇であったという説は当然ながら、幕末から明治にかけての時代であるが、実はそれ以前に、大室寅之祐が明治天皇にすり替わったという説を生み出す背景があった。

  1. 長州は政治家輩出大国
  2. 朝鮮と長州
  3. 南北朝

調べを進めると、薩長藩閥政治を批判的にみる人に都合がよい論をつくるために、過去の歴史を利用して「明治天皇すり替え説」につなげたように思われる。

長州は政治家輩出大国

明治新政府に多くの人材を輩出した長州は、山口県となった後も、政治家を輩出している。

昭和に入り、岸信介と佐藤栄作兄弟をはじめ、直近の安倍晋三首相も東京生まれだが、本籍は山口県である。総理大臣以外にも、政府要職には元をたどれば山口県にルーツを持つ人は多い。

岸信介

岸信介

佐藤栄作

佐藤栄作

安倍晋三

安倍晋三

画像引用:首相官邸ホームページ

 

なぜ、山口県は政治家を輩出しているのか、という疑問については、明治新政府の要職を長州出身者が占めたことで容易に説明できる。

しかし、批判的にみる向きからは、地理的歴史的経緯から、長州と朝鮮の結びつきが濃いため、朝鮮人が政治をコントロールしているとまで主張している論もある。

朝鮮と長州(大室寅之祐は朝鮮人)

663年の白村江の戦いに端を発し、長州にはたくさんの朝鮮人移民が流れてきた。そのため、大室寅之祐は朝鮮人ではないか、と言われている。

東洋経済オンラインの記事では、古来日本は非常に国際色が豊かであったと説明されている。

文化的にも古来より日本は非常に国際的であった。日本には中国や朝鮮で王朝の交代があるたびに、大量の移民が流れてきた。東アジア各国からの渡来人が古代文明や稲作を伝えたことは小学校でも習ったと思うが、特に古代朝鮮王朝の新羅が勢力を増したときに、高句麗や百済の政治亡命者が大和朝廷内部をはじめ日本各地に移住した。日本各地に百済や高麗と名のつく地名があるが、明治時代や戦前に国策で随分消されたが、それでも名残がたくさんある。

東洋経済オンライン

また、産経新聞が独自に調査した山口県史では、朝鮮戦争の際、山口県は朝鮮からの密入国が増えないか、独自に情報収集にあたったという。

朝鮮戦争勃発前、「そのとき」に備えて現実的な対応に取り組んだ地方自治体がある。半島と地理的に近い山口県だ。韓国の李承晩政権の日本亡命と難民流入対策として、独自に情報収集を進めていた。

(中略)

さきの大戦終了後、朝鮮半島からの密入国者が増えていたためだ。

産経新聞が独自に調査した山口県史

このように、山口県は朝鮮からの移民が流入していたため、大室寅之祐が朝鮮人であるという噂もあるのだろう。

南北朝

別の角度からの説では、南北朝という問題が背景となっている。すなわち大室寅之祐は南朝の末裔だというのである。

1333年、鎌倉幕府を倒し、政権を朝廷に取り戻した後醍醐天皇が建武の新政を始めたが、程なく武士が政治に不満を持ち始め、足利尊氏を筆頭に後醍醐天皇に反乱した。京都を追い出された後醍醐天皇は、奈良の吉野に移り、南朝を樹立、足利尊氏は京都に北朝を擁した。

幕末において、反幕府側は南朝の天皇の擁立に動いたと言われている。背景には、水戸学の尊王論があった。定かではないが、反幕府勢力には、「南朝の子孫が手元に存在する」という理由を持って、江戸幕府を倒そうとしたと言われている。

また、皇居の前には楠木正成像があるが、南北朝時代、最後まで後醍醐天皇側につき、足利尊氏と戦った英雄の銅像が皇居の前に存在するのは明治に入ってからである。

南北朝

画像引用:住友グループ広報委員会

このように、南朝、すなわち後醍醐天皇以降の血筋が正統であるという考えを薩長が持っていたと噂されており、それが大室寅之祐に結びついた解釈だと思われる。

以降の章では、大室寅之祐の「人」に焦点をあてていきたい。

大室寅之祐とはどんな人物か

本章では、大室寅之祐がどんな人物だったのか、また明治天皇すり替え説にまつわる残りの噂を考察していく。

  1. 大室寅之祐の容姿(フルベッキ写真)
  2. 大室寅之祐の家族(父親は誰?)
  3. 明治天皇は大室寅之祐ではなく箕作奎吾

大室寅之祐の容姿(フルベッキ写真)

大室寅之祐の容姿については、資料が少ないが、幕末にオランダの宣教師、グイド・フルベッキがとった写真(フルベッキ写真)に、大室寅之祐が写っているという説がある。

しかしながら、この写真は44名の武士が写っているが、一人ひとりが誰なのか定かではなく、大室寅之祐であるかどうかは、全く不明である。

下記が、フルベッキ写真と言われるものであるが、最前列左から6番目、刀を肩にかけている人物が大室寅之祐ではないか、と言われている。

大室寅之祐の容姿(フルベッキ写真)

画像引用:レキシル

このように、大室寅之祐の容姿については、この根拠のないフルベッキ写真以外、資料として存在していない、あるいは非常に少ないため、まったく不明である。

大室寅之祐の家族(父親は誰?)

大室寅之祐の父親は誰か、家系は本当に南朝の末裔なのか、という話についても、いまだに不明である。

また、これも根拠のない説だが、幕末の著名な歴史家である「頼山陽」が大室家の血統を精査し、南朝とのつながりが続いていると判定したとも言われている。

ちなみに頼山陽は、坂本龍馬や西郷隆盛といった幕末の志士に支持された「日本外史」というベストセラーを書いた人で、尊王攘夷を掲げる幕末志士の間で読まれたベストセラー本の著者である。

この頼山陽が判定したというのは、本当に討幕派からすると非常に都合の良い解釈であったように思う。

明治天皇は大室寅之祐ではなく箕作奎吾

もうひとつの明治天皇すり替え説が存在する。箕作奎吾(みつくりけいご)という人間が明治天皇であったという説である。

こちらも大室寅之祐の明治天皇すり替え説以上に、深層は闇の中である。

この噂も、おそらくは天皇を中心とした明治の体制確立を、疑わしく思う人にとっては、都合の良い陰謀説の材料であったと言える。

総括:大室寅之祐が明治天皇であるという説の本質

これまで見てきたように、大室寅之祐が明治天皇であるという説の本質は、革命の正統性を確立したい一部の藩の出身者に限られた新体制側と、その他大勢の批判的な捉え方の対立関係と捉えることができる。

明治新政府は、設立当初、かなり危うい基盤のうえに置かれていた。急ぎ天皇を中心とした統治体制を確立する必要があったのである。

なぜなら、反乱分子は数多く存在しており、西郷隆盛を中心とした旧士族の反乱である西南戦争で敗北していたならば、明治政府はもはや体制を維持するのが難しかったはずである。

西南戦争での勝利は、明治新政府の基盤を確立するのに、大変重要な出来事だったのである。

一方、軍事面は物理的に対処できたとしても、中央集権体制の確立にあたっては、明治新政府自体の正統性を示す必要があった。そのため、天皇を擁立し、反対勢力を取り除いた。

例えば、征韓論によって西郷隆盛が下野したことは周知のとおりだが、同じタイミングで江藤新平(肥前:現在の佐賀県)と板垣退助(土佐:現在の高知県)も下野している。

うち江藤新平は、反乱を起こし大久保利通によって斬首させられている。くしくも薩長の藩閥政府に何とか食い込んだ肥前佐賀藩の出身者である江藤新平が、政府の圧倒的な強い権力を示す道具となってしまったのである。

このように、明治新政府は西南戦争までの間に、権力を確立させようとしており、上記のような史実もあれば、史実になっていないことも人々に想像させるのであろう。

大室寅之祐が明治天皇であるという説は、反対勢力が陰謀説として上記の動きをとらえた一環であると推測する。

 

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