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【ローマ教皇レオ10世の功罪】プロテスタントの生みの親?

キリスト教は全世界で23億人を超える信者数がいる世界最大の宗教です。キリスト教はいくつかのグループ(教派)に分かれており、その一つが「カトリック教会」で教派の中心に存在するのが「ローマ教皇」です。

2番目に信者数の多い教派は「プロテスタント」で約5億人の信者がいるといわれていますが、その教派が生まれカトリック教会から分離するきっかけを作ったのは、なんと16世紀のローマ教皇「レオ10世」なのです。

今回はキリスト教におけるレオ10世の功罪を中心に、その足跡やレオ10世に関係する歴史を解説していきます。

レオ10世

レオ10世は・・

  • プロテスタントの生みの親?
  • レオ10世が登場した時代背景とイタリアの混乱
  • 15世紀に訪れた束の間の平和
  • 平和の終焉とイタリア戦争
  • レオ10世の家柄:フィレンツェとメディチ家
  • カトリック教会の教皇に即位
  • ローマ教皇「レオ10世」の時代
  • レオ10世による贖宥状の販売
  • 宗教改革のうねり
  • 神聖ローマ皇帝カール5世との複雑な距離感
  • レオ10世の最期
  • レオ10世の逸話
    大浪費家レオ10世
  • マキャベリそしてチェーザレ・ボルジア
  • 歴代教皇の中で一番醜い?
  • レオ10世はある意味「歴史・世界史に名を残した」ローマ教皇

レオ10世が登場した時代背景とイタリアの混乱

イタリア半島はもともとローマ帝国の中心地であり、広大な帝国の中心だったのですが、395年ローマ帝国は東西に分裂し状況が悪化していきました。

西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐えられなくなっていき、476年ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって皇帝が退位させられ西ローマ帝国は滅びてしまいます。

この時オドアケルは東ローマ皇帝から「dux Italiae(イタリア領主)」に任命され、これが現在の国号「イタリア」のもとになります。

その後、東ゴート王国や東ローマ帝国の統治を経て、8世紀にはローマ教皇領や神聖ローマ帝国領のほか、この間に発展を遂げてきた都市国家による分裂状態となってしまいました。

レオ10世が登場した時代背景とイタリアの混乱

15世紀に訪れた束の間の平和

8世紀から15世紀にかけて諸勢力が入り乱れた群雄割拠の時代が続きました。15世紀になったころには北部を神聖ローマ帝国が支配し、その他を5大都市国家(ローマ教皇領、フィレンツェ、ミラノ、ベネチア、ナポリ)や中小の都市国家が争っていた状況に変化がおきます。

5大都市国家が1454年に外敵に対して連合して対抗するという平和条約を結び、”ローディの平和”という束の間の平和が訪れたのです。この安定状態には功罪それぞれが指摘されており、束の間の平和による繁栄と「ルネッサンス文化」の興隆をもたらした半面、分裂状態の安定によりイタリア統一の機運は遠のき、列強諸国の侵略を招いてしまった原因でもあります。

平和の終焉とイタリア戦争

約40年間続いた「ローディの平和」は1494年終わりを迎えます。フランス王シャルル8世が「ヴァロア・アンジュー家からナポリを継承した」と主張し、2万5千という大軍でイタリア半島へ侵攻したのです。

このヴァロア・アンジュー家というのはもともとナポリを統治していた家系で、シャルル8世もこの家系に連なっているので話が厄介です。当時のナポリ王国はトラスタマラ家の統治下にあり、シャルル8世の主張は言いがかりのようなものでした。

しかしフランス王シャルル8世のイタリア侵攻によって、イタリア史にもヨーロッパ史にも重大な影響を与えた「イタリア戦争」が始まりました。

レオ10世の家柄:フィレンツェとメディチ家

後のローマ教皇レオ10世はフィレンツェのメディチ家出身で、名前を「ジョヴァンニ・デ・メディチ」と言います。

メディチ家最盛期の当主「ロレンツォ・デ・メディチ」の次男にあたり、英才教育をうけ16歳という若さで枢機卿となっています。

フランス侵攻時のメディチ家は父ロレンツォがすでに死去しており、兄のピエロがメディチ家を継いでいました。

フランス侵攻時に兄ピエロは大失策を犯してして、ジョバンニ(レオ10世)とともにフィレンツェを追放されてしまいました。

ピエロはもともと人望がなく市民の不満が高まっていたところに、全くの独断で無抵抗のままフランス軍をフィレンツェに招き入れてしまったのです。

フィレンツェを追放され、メディチ家の力の源泉だった「メディチ銀行」も破綻してしまいます(実際は父ロレンツォの散財によって破綻寸前だった)。

こうしてメディチ家は亡命を余儀なくされたのです。

レオ10世の家柄

カトリック教会の教皇に即位

亡命中、後にマキャベリの「君主論」で”理想の君主像”と言われるチェーザレ・ボルジアと行動を共にしていたピエロが、1503年戦闘での逃走中に溺死してしまい、ジョバンニがメディチ家当主の座を継承しました。

ちなみにイタリア戦争のきっかけを作った張本人のシャルル8世は、ナポリ制圧後にローマ教皇・ヴェネツィア・ミラノの連合軍に攻撃され多大の損害をだしてフランスへ逃げかえることになります。そして哀れなことに1498年「うっかり鴨井に頭をぶつける」という事故で亡くなったのです。

1512年、ときのローマ教皇ユリウス2世の支持のもとスペイン軍とともにフィレンツェへ侵攻し、メディチ家の復権を果たします。翌1513年、ユリウス2世の死去により37歳という若さでローマ教皇へ即位しました。

ローマ教皇「レオ10世」の時代

ローマ教皇となったレオ10世ですが、その後の在位中は表向き平和主義者として振舞いながら、偉大な父「ロレンツォ・デ・メディチ」同様の政治的才覚を発揮します。

当時のイタリアの状況やローマ教皇を巡る点を考えると一概には責められませんが、その足跡を辿ってみましょう。

レオ10世の業績として特に上げられるのが文化面の功績です。ミケランジェロやラファエロなど多くの芸術家のパトロンとなり支援したことで、ルネサンス文化は最盛期を迎えました。

ローマ教皇「レオ10世」の時代

また前教皇がはじめたサン・ピエトロ大聖堂の再建を引継ぎ、聖堂や広場、洗礼堂の修復までは行いましたが、当初予定されていた壮大な計画自体はほとんど進展しませんでした。

後の大問題の原因となることですが、レオ10世はメディチ家出身ということも関係してか、日々王侯のような贅沢な暮らしを求め、また芸術家支援など莫大な浪費をし続けてドイツの豪商フッガー家に借金をしていました。

レオ10世による贖宥状の販売

レオ10世への貸付金の回収のためフッガー家が考えたのが「サン・ピエトロ大聖堂の再建費用」名目で「贖宥状」を販売することでした。

この贖宥状というものですが、日本では免罪符ともいわれ、その起源は11世紀にはじまった聖地奪還を目指す十字軍の従軍者に対し「贖宥(罪の償いを軽減する)」の証明書を渡したものです。

このとき従軍できない者に対しても寄進をおこなうことで「贖宥状」を発行しました。

贖宥状の販売にはレオ10世とフッガー家、それにドイツの最高聖職位マインツ大司教に叙任されたアルブレヒト(彼も大司教へなるための工作資金をフッガー家から借りていた)の3者が関わっていたのです。

この贖宥状の販売実務はドミニク修道会が担当したのですが、その販売にあたり「買うだけでありとあらゆる罪から免れる」という謳い文句で乱売し、この謳い文句を聞きつけたある神学者がドミニク修道会への批判を開始します。

その神学者こそ後の宗教改革の中心人物「マルティン・ルター」です。

レオ10世による贖宥状の販売

宗教改革のうねり

ルターが「レオ10世贖宥状の販売」について一番問題だと考えたのは「買うだけでありとあらゆる罪から免れる」という部分であり、実は借金返済のための錬金術だとは知りもしませんでした。

1517年10月31日、ルターは贖宥行為の乱用が見られるとした「95ヶ条の論題」を、ローマ教会への抗議として張り出します。

この文書はラテン語で書かれていたため、一般の民衆には内容の分からないもので、当のルターも民衆へ大きな影響を与えるとは考えていなかったと言われています。

しかしこの文書はすぐにドイツ語に訳され、印刷されたものが出回りドイツ中で大論争を巻き起こすきっかけとなったのです。宗教改革の起点となった出来事と言えます。

これを契機とした批判には、もとからローマ教皇へ不満を持っていた諸侯・騎士や市民などを巻き込みながら大きな社会問題へと発展してしまいました。

宗教改革のうねり

1520年、レオ10世はルターに対し「自説を撤回しなければ破門する」と迫りましたが、ルターはこれを拒絶し、ついに破門されてしまいます。

この問題には複雑な国際情勢も関係しており、カトリック教会を破門されたルターによって新教派「ルター派(プロテスタント)」が成立することになりました。

神聖ローマ皇帝カール5世との複雑な距離感

1519年に神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世が死去し、後継の座をスペイン王カルロス1世(後のカール5世)とフランス王フランソワ1世が争いました。ローマ教皇レオ10世はフランソワ1世の支持を表明しカルロス1世の戴冠を阻止しようとしましたが、カトリック教会への批判が大きくなっていたドイツで、レオ10世の応援は逆効果となったようです。

しかしカール5世も宗教改革に反対する立場であり、その点についてはレオ10世と利害が一致していました。ルターの宗教改革に対抗するため、レオ10世は自信が皇帝選挙を邪魔したカール5世と秘かに同盟を結びました。このことが神聖ローマ帝国とフランス王国の争いにイタリア全土を巻きもむ遠因にもなります。

レオ10世の最期

1521年12月1日レオ10世は45歳という若さで死去しました。この年の6月から始まった第三次イタリア戦争で同盟軍がパルマを攻略したという報告を受けた日だと伝わっています。

死因は「風邪をこじらせた」「マラリアに感染した」「毒殺」など様々な説があります。また贅沢な暮らしをしていたため「暴飲暴食で亡くなった」ともいわれますが、実際は病弱であったためということでした。

レオ10世の逸話

宗教改革の原因となり、マルティン・ルターを破門したことが何より有名になってしまったレオ10世ですが、彼には様々な話が伝わっています。

ここではそれらを紹介します。

レオ10世の逸話

大浪費家レオ10世

レオ10世は浪費家として当時から有名で、「レオ10世は3代の教皇の収入を一人で食いつぶした」と言われていました。3代とは先代ユリウス教皇と当の本人レオ10世、そして次代の教皇の分です。

マキャベリそしてチェーザレ・ボルジア

「君主論」の作者マキャベリはメディチ家が統治していたフィレンツェの外交官を務めていた人物です。

そのマキャベリが苦難のすえフィレンツェへ復職し使えたメディチ家の当主は、レオ10世の甥にあたるロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチです。

かの「君主論」はロレンツォに献上された書物で、分裂し列強国に蹂躙されるイタリアの統一を願って書いた書物なのですが、そこで理想の君主像として描かれていたのはチェーザレ・ボルジアで、レオ10世の3代前のローマ教皇「アレクサンデル6世」の子です。

実はチェーザレ・ボルジアはレオ10世と同じ1475年生まれで、ピサのサピエンツァ大学で2人は学友でした。

メディチ家がフィレンツェを追放されたときは、レオ10世の兄ピエロがチェザーレと行動を共にするなど何かと縁の多かった2人でした。

しかし、レオ10世としてローマ教皇に即位する前の1507年に、父でありローマ教皇だったアレクサンデル6世の死により勢いを失ったチェザーレはスペインとの戦の中で命を落としていました。

マキャベリそしてチェーザレ・ボルジア

歴代教皇の中で一番醜い?

メディチ家の出身で敵も多かっただろうレオ10世ですが、1513年ローマ教皇へ即位したとき「史上最年少で、最も醜男の教皇」といわれました。これは後に贖宥状などの醜聞も加味されたと思いますが、歴史的に見ても「ローマ教皇」としては失点が多かったが故の伝承でしょう。

レオ10世はある意味「歴史・世界史に名を残した」ローマ教皇

レオ10世の生涯を見ていくと「名門メディチ家の出身」と「分裂状態のイタリア」という2つの要素が、大きな影響を与えていたことが分かります。

後世「キリスト教分裂の元凶」などという評価も、見方によっては降りかかる火の粉を振り払い続けた結果とも言えます。

プロテスタントの誕生と、悪い意味での「免罪符」という、ある意味歴史に名を残すことになったローマ教皇がレオ10世なのです。

レオ10世:ある意味「歴史・世界史に名を残した」ローマ教皇

 

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