伝説のマタギと言われる山本兵吉。彼の名を一躍世に知らしめたのは、大正時代、北海道で起こった日本史上最悪の獣害事件である「三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)」。
本記事では、大人気漫画のキャラクターのモチーフになるなど、なぜ山本兵吉がマタギとして最強と言われているのかについて、既知の情報を整理していきたい。
また、山本兵吉に関するマタギ以外の情報も整理し、人間「山本兵吉」を探っていきたい。
三毛別羆事件は凄惨な獣害事件だが、山本兵吉が現場に駆けつけるのが早ければどうなっていたのか、羆の専門家の意見や現役マタギの仕事ぶりから、考察することをこころみたい。
尚、三毛別羆事件については、事件の詳細の描写は既に他の文献やメディアが行っているため、詳細はそちらをご確認いただきたい。本記事はあくまで、さまざまな文献資料から、山本兵吉のマタギとしてのすごみを検証することにしたい。
記事の内容
- 伝説のマタギ、山本兵吉
- マタギとは
- 山本兵吉のマタギとしてのすごさ
- 山本兵吉の最強伝説「三毛別羆事件」
三毛別羆事件の概要「日本史上最悪の獣害事件」 - 山本兵吉登場!羆を撃ち殺す
羆を射殺した山本兵吉の銃とは - 山本兵吉とゴールデンカムイ
- 山本兵吉が三毛別羆事件に早期参戦=被害はどうなっていたか?
- 人間「山本兵吉」の素顔 家族や息子について
- 山本兵吉の弟子、大川春義
まるで親子の関係 - 総括
伝説のマタギ、山本兵吉
山本兵吉の資料はそんなに残っていない。
そのため既存の記事などから引用し、山本兵吉のマタギとしてのすごさを確認していく。
マタギとは
山本兵吉の前に、「マタギ」について説明したい。
マタギとは、アイヌの文化を祖とする大型動物の狩猟を行う人たちのことを指し、近代、特に明治から昭和の終戦前までの時代背景を色濃く受けて、現在に語り継がれるマタギの姿、文化が形作られていった。
山本兵吉も、北海道出身であることから、このような文化の中で生きていたと推測される。
上記の結論に至った経緯としては、下記のような情報からである。
農林水産省では、aff(あふ)というWebマガジンを発行しているが、そこでは、秋田県の阿仁(あに)地域で発祥したマタギについての記事を掲載している。その記事では、下記のように近代のマタギの道具などが掲載されている。
秋田県のホームページではマタギに関する情報が掲載されている。マタギの定義部分を以下に引用する。
「マタギというのは、クマなどの大型獣を捕獲する技術と組織をもち、狩猟を生業としてきた人をいう」
また、東北芸術工科大学芸術学部歴史遺産学科教授、田口洋美氏の講演「東北のマタギ習俗とアイヌの狩猟」において、近代の狩猟の発展には、明治の後半から大正、昭和の 20 年まで続く軍隊の毛皮需要が重要な役割を果たしているとのことである。マタギの装備がやや発展したのも、この時期である。
マタギの装備については、秋田県のホームページが視覚的にも分かりやすい資料を提供してくれている。
秋田県には、県民による森林ボランティア活動を総合的にサポートするワンストップ窓口である、あきた森づくり活動サポートセンターという団体があるが、北東北という地域は、古来よりアイヌの文化を色濃く受けていることを紹介している。
山本兵吉のマタギとしてのすごさ
山本兵吉のマタギとしてのすごさは、当時のマタギ以上でも以下でもない装備や道具を用いたうえで、多くの羆を倒したことだ。
倒した羆の数に対する詳しい資料は発見できなかったが、山本兵吉のWikipediaには(以下引用)「生涯で捕った羆は300頭といわれる」(引用ここまで)とある。多くの羆を倒したことは容易に推察される。
近代のマタギといっても、その文化的経緯から、肉薄して一発で倒すという目的を達するための簡素な装備や道具で狩りを行っていた。
明治時代に入ると、効率よく狩りを行うための技術的下地は確立していたはずだが、アイヌの文化を色濃く受け継ぐマタギの文化には、「イオマンテ」と呼ばれるアイヌの狩猟信仰により、狩猟の際、なるべく一発で仕留めることが根付いていたため、装備や道具が飛躍的に向上することはなかった。
公益財団法人世界自然保護基金ジャパン(WWFジャパン)のクマの保護管理の連載記事には、アイヌの狩猟信仰について詳しく記述されている。
このように、山本兵吉のマタギとしてのすごさは、道具や装備に依存せず、羆を数多く倒したということに尽きる。
山本兵吉の最強伝説「三毛別羆事件」
山本兵吉の最強伝説のきっかけといっても過言ではない、三毛別羆事件。本章では、事件の概要を現在の被災地の資料をたどりつつ最低限説明したうえで、三毛別羆事件における山本兵吉のすごさを考察していきたい。
三毛別羆事件の概要「日本史上最悪の獣害事件」
「三毛別羆事件」は、日本史上最悪の獣害事件とされており、羆による凄惨な事件となっており、今でも語り継がれている。
1915年(大正4年)12月、北海道苫前郡苫前村三毛別にてわずか2日の間に開拓民7名(胎児を含めば8名)が死亡、3名が重症を負ったという被害の大きさが、日本史上最悪の獣害事件と言われる所以である。
事件の現場となった北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)であるが、現在の苫前町の公式ホームページや観光案内に事件の概要が掲載されている。
通常、羆は冬眠に入っている時期に起きたこと、羆への警戒心がやや足りなかった開拓民であったことも、被害を大きくした要因であったようだ。また、被害者が女性だった(妊婦、胎児含む)ことも事件の残酷さを強調する要素となっている。
このように、三毛別羆事件は羆による最悪の獣害事件と位置づけられている。
画像引用:苫前町観光WEB
山本兵吉登場!羆を撃ち殺す
山本兵吉が事件の対応に参加し、最初の犠牲者がでた日(12月9日)から5日後の12月14日に当該の羆を射殺したとされている。
どうやら事件の最初からではなく、射殺した12月14日の1日前の夕刻くらいから、この事件の対応を行っていたようである。
また、事件を重く見た当時の北海道庁では、大討伐隊を結成し現地に派遣した。この集団には、山本兵吉はどうやら加わっておらず、単独で羆を追っていた。
当時57歳。12月14日の朝、事件現場付近の山頂で羆を発見した山本兵吉は、たった2発の銃弾で羆を射殺したのであった。
尚、上記の記述は「ヒグマの会」による、当時の事件の振り返り記事を参考にしている。記事は本事件の記録者であり、本事件のあらゆる情報のもとになっている「慟哭の谷」をまとめた、木村盛武氏へのインタビューで解説・考察をしている。
ちなみにヒグマの会とは、下記目的で羆の有識者で結成されている組織である。
「ヒグマの会」は、ヒグマとそれをとりまく自然環境や社会に関心を持つ市民や研究者、農業者、狩猟者ら、幅広い層によって構成され、ヒグマに関する社会的な知識と理解を深め、会員による諸活動を発展させるために、人的交流や情報交換、地域における問題提起や解決への努力を推進する
羆を射殺した山本兵吉の銃とは
山本兵吉が三毛別羆事件にて、羆を撃ち殺した銃は、定かではない。
山本兵吉のWikipedia掲載の日露戦争の戦利品であるボルトアクション方式を使っていたと仮定すると、連射速度の速くない銃を使っていたことになる。
なぜなら、弾丸の装填を1発ずつ手動で行う方式だからである。マタギの作法に乗っ取り、一発で仕留めることが求められる銃であるといえる。
山本兵吉の銃は、1発で獲物をしとめることが求められる銃を使っていたと推測される。
山本兵吉とゴールデンカムイ
近年、山本兵吉が脚光を浴びているのは、週刊ヤングジャンプに連載されている大人気漫画、「ゴールデンカムイ」の影響が大きい。
詳細は、ぜひ原作やアニメで確認いただきたいが、日露戦争後の北海道が舞台、アイヌの文化も色濃く描写されているのが特徴である。
この「ゴールデンカムイ」の登場人物に、二瓶鉄造(にへい てつぞう)という初老の羆狩りの猟師が描かれているが、この人物のモデルは、「熊嵐(くまあらし)」という三毛別羆事件をモデルにした小説に登場する猟師をモデルにしていると言われている。
なお、「熊嵐」は三毛別羆事件を詳細にまとめた「慟哭の谷」がもとになっている。「慟哭の谷」は、三毛別羆事件の情報のすべての基になっているといってよく、山本兵吉も記載されている。
このように、人気漫画「ゴールデンカムイ」の登場人物、二瓶鉄造は山本兵吉である可能性が高い。
参考:熊嵐 吉村 昭 著
参考:慟哭の谷 木村 盛武 著
出典:pixiv百科辞典
山本兵吉が三毛別羆事件に早期参戦=被害はどうなっていたか?
仮に、山本兵吉が1日でも早く、三毛別羆事件に参戦していたら、被害状況は変わっていただろうか?という疑問について、ヒグマ専門家と、この事件の最初かつ最大の資料となっている、「慟哭の谷」作者の木村盛武氏の考察や分析から検証していきたい。
結論から言うと、被害は少なくなっていた可能性がある。
理由は、山本兵吉以外の羆討伐隊が素人集団で、狙撃の腕が悪かったからである。木村盛武氏の事実確認と考察を引用する。
「銃の手入れも操作も悪く、ともかく撃ち損じが多い。クマに対してはそれほど熟練していないうえ、寄せ集めの面々で、牽制し合うというか、連携がよくなかった。まるで烏合の衆」
山本兵吉以外の狩猟のレベルが著しく低かったといえる。
人間「山本兵吉」の素顔 家族や息子について
山本兵吉の、三毛別羆事件以外の資料や文献は、さらに少ない。
三毛別羆事件をもとにしたドラマや映画の中でも、山本兵吉をモデルにしているだろうと思われる人物も描かれているが、大胆で素行が悪いといったようなイメージが定着しているように思う。
普段の山本兵吉の人間性を探るにはかなり難易度が高かったが、ここで一人の人物に登場してもらい、人間としての山本兵吉と少しでも解明していきたいと考える。
山本兵吉の弟子、大川春義
大川春義という人物は、北海道苫前町出身の猟師(マタギ)である。実はこの人物は、三毛別羆事件の目撃者であり、事件当時、対策本部が置かれた当時の三毛別区長の息子である。
1909年生まれで、事件当時6歳~7歳で事件の一部始終を見聞きしている。幼心にも羆への恨みが強く、犠牲者のために将来羆を70頭仕留めて仇を討つと誓ったそうだ。
まるで親子の関係
大川春義のマタギの師匠は、山本兵吉である。山本兵吉は三毛別羆事件の後、現在の苫前町に住んでいたこともあるようで、大川春義への接し方は、まるで親子のようでもある。
朝日新聞に、三毛別羆事件をたどった連載記事がある。その中で、まだ健在だった大川春義に直接取材した記事がある。以下はその引用である。
春義さんの師匠は袈裟懸けを仕留めたマタギの山本兵吉さんだった。生涯で300頭を超すヒグマを倒したという名猟師だ。酒癖が悪く周囲からは煙たがられたが、子どもには優しく、鉄砲を担いで猟のまねをする春義さんに熊撃ちのコツを繰り返し教えた。
「親子連れは必ず親から」「絶対に外さない距離まで引きつけろ」「撃つのはドテッ腹」「爪が全部反り返り、完全に死ぬまで近寄るな」……。そして「確実に倒せる度胸と気力が起きるまで絶対に向かい合うな」だ。
このように、山本兵吉には映画やドラマでのイメージ通りの一面はあるものの、もう一方で事件によって羆を倒すという大川春義に対して、懇切丁寧に教えるという、まるで親のような側面もあったことが伺える。
総括:山本兵吉について
今回の記事では、マタギ、クマ撃ちの名人である山本兵吉について取り上げた。
マタギの文化に忠実で、それが故に類まれな技術で、生涯多くの羆を倒すことができた。そして、日本史上最悪の獣害事件とされる三毛別羆事件を解決するという重要な役割を果たすことになった。
また、その技術やノウハウを継承した弟子の大川春義も、名人の域に達したマタギとなった。そこには、今まで描かれていない、人間山本兵吉の姿を垣間見ることができた。
本記事を見ている人は次のページも読んでいます
- 高濱機長の軌跡【責務を全うした勇者と家族の絆】
- 岡潤一郎騎手の落馬事故:競馬界を風のように駆け抜けた男の軌跡
- 落合由美・日航機墜落事故生存者の証言、その後【今の幸せを祈る】
- 女優 中江里香:意外な結婚相手や絶縁トラブル・無名塾出身?
- 福本まなかの軌跡【意外な過去】ものまね番組で絶賛の嵐
- 中田大智、引退の真相と現在:濱田崇裕がライバルであり相方だった
- 神谷浩史 事故の真相:バイク事故の原因や傷、後遺症・代役について
- 炎鵬晃の教科書【身長168cmでも強い!】今場所の成績や結婚など
- 日向ななみ辞典:子役から反町隆史とのドラマ共演・引退までの軌跡
- 藤井梨央の軌跡【義手で握手がルール違反か】現在は元気そう