栄村忠広の野球人生:吉村禎章との事故・標的にしたやくみつる

栄村忠広さんは自身の力で勝ち取った読売ジャイアンツの一軍選手としての地位が、ほんの一瞬の出来事ではかなく消え去っていくという現実に直面する。

きっかけとなった試合中の出来事は栄村忠広さんが悪いわけでもなく、相手の吉村禎章選手が悪かったわけでもない。

栄村忠広さんと吉村禎章選手の運命を分けたものは何だったのか、検証してみた。

記事の内容

  • 栄村忠広の野球人生:静かに暮らす現在
  • プロフィール
    野球人生の経歴
    持ち味は瞬足
  • 東京ドーム初盗塁は吉村禎章選手の代走
  • 栄村忠広の好調なプロ野球人生に大事故発生
    栄村忠広と吉村禎章に関する事故とは
  • 栄村忠広の動きを動画で確認
  • 不屈の男・吉村禎章の復活
  • 栄村忠広に『もしも』があったなら
  • 誰よりも喜んだ
  • 栄村忠広と吉村禎章の関係が動いた
    2人を取り持ったのはテレビ局
  • 吉村禎章の事故後
    栄村忠広の事故後
  • 栄村忠広と吉村禎章をつないだ手紙
    吉村禎章のメッセージ返し
  • 栄村忠広を標的にした男=やくみつる
  • 栄村忠広が審判?それは、栄村隆康審判員の間違い
    パシフィック・リーグ公式審判員『栄村隆康』
    栄村ゾーンの存在
    代表して言っただけ
  • 審判・栄村隆康の事故ではない
  • 統括

栄村忠広の野球人生:静かに暮らす現在

野球を愛する栄村忠広さんが自身で切り開いたプロ野球という人生に幕を閉じ、ずっと身を潜めて暮らしてきた時間があった。その時間は動いてはいたものの栄村忠広としての人生はほとんど停まっていたのと同じだったのではないか。

その停まっていた時間を進めるきっかけを作ってくれたのがテレビの力だった。

プロフィール

  • 栄村忠広(さかえむら ただひろ)
  • 生年月日:1961年9月10日
  • 出身地:鹿児島県枕崎市
  • 身長:174cm
  • 最終学歴:鹿児島実業高校卒業
  • 経歴:日本専売公社鹿児島
  • 読売ジャイアンツ(1983年~1990年)
  • オリックス・ブルーウェーブ(1991年)

自らの力で読売ジャイアンツへの入団を勝ち取り、二軍で練習に励み1988年昇格を果たした一軍での初仕事は打者ではなく吉村禎章選手の代走だった。

そして見事に決めた初盗塁。きちんと役目を果たした瞬間だった。

プロフィール

1987年引退した松本匡史選手

【1987年引退した松本匡史選手】

ジャイアンツにはセ・リーグ盗塁記録を持つ“青い稲妻”と呼ばれた松本匡史選手がいたが1987年に引退している。

その後を固める選手として、栄村忠広さんの瞬足はジャイアンツにとって“ドームの申し子”として頼もしい存在になるはずだった。

あの忌まわしい事故が起きるまでは。

その不慮の事故により一軍に昇格してわずか2年でオリックス・ブルーウェーブに移籍し、その1年後に引退してしまった栄村忠広さんは「ひっそりと暮らしたい」という言葉を残し、球界関係者やマスコミとの連絡を絶ち、どこで何をしているのかまったく不明の時期がある。

現在は草野球チームにも所属し、家族と普通の生活を楽しんでいるようだ。

野球人生の経歴

野球人生の経歴

地元鹿児島で、甲子園出場常連校として有名な鹿児島実業高校に入学し、たくさんの部員がいる中、2年生の時には守備範囲も広くポジションとしては高い技術が求められる重要なセカンドを任され、3番打者で甲子園出場を果たしている。

結果は1回戦で静岡県立静岡高校に3-4で惜敗した。

野球人生の経歴

このとき4番打者だった1年先輩の定岡徹久さんは、元プロ野球選手でエースピッチャーだった定岡正二さんの弟である。

3年生でも2年連続で甲子園までコマを進めるが、やはり1回戦で敗退している。このときの対戦校は三重県立相可高校で2-4だった。

2年連続甲子園出場を果たすもプロへの道は開けず、高校卒業後は軟式の日本専売公社鹿児島に進んでいる。

持ち味は瞬足

栄村忠広さんはプロへの夢を捨てきれず、1982年入団テストを受けて読売ジャイアンツに内野手として入団が許された。右投右打だったが瞬足を活かすためスイッチヒッターへの転向を試み、右投左打となる。

イースタン・リーグで盗塁王のタイトルを獲得した翌1988年、一軍に昇格しセンターとして11試合に先発出場を果たし、11試合中4試合に一番打者として出場している。

東京ドーム初盗塁は吉村禎章選手の代走

一軍に昇格した年の開幕戦第2戦目、1988年4月9日の対ヤクルトスワローズ戦の8回裏、塁に出た吉村禎章選手の代走としてプロ野球選手・栄村忠広として初の東京ドームの人工芝の上に立っていた。

栄村忠広さんはしっかりと期待に応えプロ初盗塁を決めてみせた。プロ野球公式戦初出場にして初盗塁の瞬間だった。

栄村忠広さんはプロデビューしたこの年、11盗塁を決めチーム最多という盗塁成績をあげている。

同年、やはり対ヤクルトスワローズ戦で吉村禎章選手の代走として出場したときは、投手からの送球が頭部を直撃し負傷退場している。このアクシデントを機にセ・リーグでは走者にもヘルメット着用が義務付けられるようになっている。

栄村忠広の好調なプロ野球人生に大事故発生

プロとして初めての東京ドーム出場で初盗塁を決め、代走の際のアクシデントでヘルメット着用のルールまで作らせてしまった栄村忠広さんですが、プロデビューし最良の年になるはずの1年が最悪の年となり、大好きだった野球人生の窮地にたたされることになる大事故が発生した。

栄村忠広と吉村禎章に関する事故とは

栄村忠広と吉村禎章に関する事故とは

それは栄村忠広さんが一軍デビューした1988年の7月6日に起こってしまった。

その日は札幌市円山球場にて読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ戦が行われていた。

栄村忠広さんは8回表からセンターで守備に入っていて、中日ドラゴンズの中尾孝義選手が外野に放った打球を捕ろうとそのボールに向かって真っすぐ突進していた。

そして、同じ打球に追いつきミットにおさめるべく真下で構えたレフトを守る吉村禎章選手に、誰にも止められないような勢いで突進してきた栄村忠広さんが激突してしまうのである。

栄村忠広の動きを動画で確認

この動画から判断できるだろうか。

栄村忠広さんも吉村禎章選手もどちらもチームのために、ただただ必死に走った結果だと思う。

本来なら声をかけあってどちらかが引かなければならない状況だろう。

「その飛球コースはセンターがとるものという暗黙のルールがあった」

「飲酒が好きで毎晩のように飲んでいた吉村禎章選手は体型を気にしていたので、ついムキになってしまった」

そんな声も聞こえてはいた。

お互いに譲り合った結果お見合いしてしまうこともある。

いずれにしても、単純なミスとしてかたづけられることだったであろう事案が、選手生命の危機に陥るほどの大ケガという結果になってしまったのである。

そこに悪意はなく、誰が悪かったということもなかったと思われる。それでも大ケガを負って退場した吉村禎章選手と無傷で試合を続行した栄村忠広さんとでは周囲の扱いが違ってくるのだろう。

しかも、吉村禎章選手の強打力と確実性のある実力は次世代の4番打者候補と言われ、当時は原辰徳選手より吉村禎章選手を推す人もいるほどの有能な選手だった。

「彼が順調に伸びていたら巨人軍史とか日本の野球界にちゃんと名前を残す素晴らしい選手になったと思う」

野球界のレジェンド・王貞治氏からもこう言われていた。

読売ジャイアンツファンにとっては1982年にドラフト3位で入団し、駒田徳広選手、槇原寛己選手の3人で50番トリオと名付けられ、実力も人気もあった吉村禎章選手に対して、二軍から上がってきたばかりの栄村忠広さんが体当たりをしてケガをさせたとなってしまうのも仕方のないことだろう。

まして、そのケガというのが左膝のじん帯の4本中3本が完全断裂、神経まで損傷していて「野球の事故でここまでのケガはみたことがない」「交通事故レベルの大ケガ」と主治医がうなるほどだったというのだ。

王貞治

不屈の男・吉村禎章の復活

重度の障害者認定を受けるほどの大ケガで、軸足に体重を乗せることができない、かかとから足をついて歩けない、という状態でありながら現役復帰を果たした吉村禎章選手。

そこに至るまでのリハビリ生活は並大抵のことではなかったと思う。

1度は諦めかけたとも言っているが、リハビリ中に出会った自分よりも重い障害児たちに励まされ勇気をもらって一念発起してがんばってきた結果、チームに復帰したのは大ケガをしてわずか1年2ヶ月後だった。

チームのリーグ優勝がかかった打席ではサヨナラ本塁打を決めるというスゴ技である。

栄村忠広に『もしも』があったなら

この8回表での守備の事故が起きる前、7回裏での打順が吉村禎章選手の直前で終わっている。この時吉村禎章選手まで打順が回っていたら、8回表のレフトに吉村禎章選手の姿はなかったはずなのだ。

9対1と勝っていたジャイアンツは守備固めのため吉村禎章選手を交代させる予定でいたという。そしてその守備固めのために8回表からセンターの守備についていたのが新人の栄村忠広さんだった。

誰よりも喜んだ

吉村禎章選手が復帰した日、二軍の遠征先でその姿を見守っていたのが栄村忠広さんだった。

泣きじゃくるっていうのはこのことかもわからないですね。
長い道のりだったですから。
栄村の精神的な辛さっていうのは計り知れないものがあったでしょうね。
吉村もしかり。

遠征先で吉村禎章選手がバッターボックスに立つ姿をみた栄村忠広さんが泣きじゃくる姿をまのあたりにしたという、当時の須藤豊二軍監督がカメラに語ったコメントである。

栄村忠広と吉村禎章の関係が動いた

事故があった試合の後、栄村忠広さんは吉村禎章選手の病室を訪ねている。

試合の映像を確認して、自分の確認ミスだと判断した栄村忠広さんは、自分のせいでスター選手である吉村禎章選手に取返しのつかない大ケガを負わせてしまったことが恐ろしくなってしまったのだろう。

病室に横たわる吉村禎章選手に何と声をかけたのか、ちゃんと謝罪ができたのかまるで記憶にないという。そして執拗なまでに続くファンからの嫌がらせや罵倒。

吉村禎章選手が一軍に復帰したときには、栄村忠広さんは二軍にいて会うことは出来ないまま引退してしまったので、2人の関係はうやむやなままだった。

この時、球団関係者は誰も取り持ってはくれなかったのだろうか。

やっと一軍に昇格し『ポスト・青い稲妻』と期待され、できるだけ守備範囲を広げなければというあせる気持ちがあったのは球団のせいもあるだろう。

2人を取り持ったのはテレビ局

2014年9月17日に放送されたドキュメンタリー番組『石橋貴明のスポーツ伝説…光と影』(TBS系)で、札幌・円山球場での事故のことにスポットを当て、吉村禎章選手をゲストに呼んでいた。

そしてすべての取材を断りつづけていた栄村忠広さんの心が何に動かされたのかはわからないが、吉村禎章選手に宛てて謝罪の手紙を書いていたのだった。

2人を取り持ったのはテレビ局

吉村禎章の事故後

大ケガを負った吉村禎章選手は選手生命も危ぶまれたが、必死のリハビリの成果があり見事に復活を果たし、普通の選手生活にはほど遠かったとは思うが現役生活を無事に終えることができて、現在はコーチ業をしている。

吉村禎章の事故後

栄村忠広の事故後

身体的問題は1つもなかった栄村忠広さん。でも野球を続けることはできず引退。吉村禎章選手への想いを抱えながら前に進もうとする栄村忠広さんに立ちはだかったのは世の中の心無い言葉や空気だった。

犯罪者でもないのに周囲の目を気にして生活しなければならない。

就職先では、

営業先に行って『あの吉村禎章選手にケガをさせた栄村です』って言えば誰にだってわかってもらえるでしょ

などという心ない言葉をぶつけられ、人と関わりの少ないアルバイトで日々の生活をやり過ごし、結婚を機に再就職を決意したけれど、人目が気になり満員電車に乗れない。子供が学校でいじめにあうのではないかと不安で心が休まらない。

栄村忠広と吉村禎章をつないだ手紙

「どれだけすばらしい記録を残すはずだったのか。それを思うと本当に口では言い表せない。それにつきます」と語り、吉村禎章選手宛にその思いをつづった手紙を番組に託した。

その内容は、もちろん全文公開されていたわけではなさそうだが、

人間的にもすばらしい人で、なおかつ野球人としても最高の選手に大ケガをさせてしまったことに大変申し訳なく思っています

という主旨のことが書かれていたようだ。

そして最後に「許してください」と書かれていたと。

吉村禎章のメッセージ返し

栄村忠広さんの気持ちは今まで以上にわかりました。

ケガがあって成長した自分がいる。

栄村忠広さんにはこれから一切罪悪感というものを持たずがんばってもらいたい。

今までこんなに気を遣っていただいて本当にありがとうございました。

この番組が放送された2014年には直接会うことはできなかった栄村忠広さんと吉村禎章選手。

それでもお互いが前に進んでいることは確かだと思う。

栄村忠広を標的にした男=やくみつる

栄村忠広さんと吉村禎章選手の事故が起きた後、ファンからは栄村忠広さんのことを「疫病神」「悪魔」などと言って罵声を浴びせたりして執拗な嫌がらせが繰り返されていた。

そんなファン心理に油を注いだのがやくみつる氏の4コマ漫画である。

栄村忠広を標的にした男=やくみつる

やくみつる氏はどうして漫画にすることを思いついたのだろう。

「これは交通事故レベルの大ケガだ」という医師の言葉に乗っかってしまったのだろうか。

もともとやくみつる氏はプロ野球4コマ漫画家として『まんがタイムオリジナル』の「がんばれエガワくん」で人気を博していたが、栄村忠広さんの衝突事故に関しては執拗なまでにネタとして扱っていた。

栄村忠広さんの背番号『66』を『666』にして悪魔の子ダミアンを連想させた漫画は、まるで栄村忠広さんが悪意をもって働いた行為のような印象を与えていった。

右は、1976年に制作された映画で頭に数字の「666」というアザがある悪魔の子の話だ。

現在、コメンテーターとして活躍を続けるやくみつる氏からは、善人を陥れるような言動は感じられず、正当な立場で指摘をする人という印象があったので、過去の栄村忠広さんに関する4コマ漫画をみて驚かされた。

そして、当時漫画をみた人達が面白がって盛り上げたことでさらに栄村忠広さんは心に深い傷を負わざるを得なかったのではないだろうか。

やくみつる氏の数々の物議をかもしだす言動に対して、番組で共演している水道橋博士さんは「茶番劇の中で悪役を演じているだけ」とフォローしているらしいが、どうなのだろうか。

栄村忠広さんという1人の人間の人生を狂わせることに大きく加担していたのではないだろうかと思えてしまう。

666=悪魔の子ダミアン

※【666=悪魔の子ダミアン】

栄村忠広が審判?それは、栄村隆康審判員の間違い

栄村忠広さんが審判員をしている?という噂があるようだが、栄村という珍しい苗字から起きた間違った情報だ。

パシフィック・リーグ公式審判員『栄村隆康』

栄村隆康(のちに登録名を孝康に改名)さんは日本大学卒業後、1991年パシフィック・リーグの審判員として採用され、1992年に西武対ロッテ戦で一軍での審判員デビューをしている。

2015年に審判員を引退するまで1871試合出場しているが、その出場数より審判の内容で有名になっている人だ。

パシフィック・リーグ公式審判員『栄村隆康』

栄村ゾーンの存在

栄村隆康さんは20年以上もの間、審判員として活躍しているが、審判員としてはあまり良い評判は聞かれないようだ。その理由というのが、ストライクを判定するゾーンが定まらない点。いわゆる『栄村ゾーン』と呼ばれるゾーンがあるのだという。

一般的にみて高めでボールだろう、というところでストライクを出したかと思えば、同じような条件で次はボールになる。そのときによって判定に違いがあることから野球ファンの間で『栄村ゾーン』なる言葉が生まれたらしい。

代表して言っただけ

代表して言っただけ

見逃し三振の判定を受けた楽天の山崎武司選手が思わず「この下手くそ」と直球な言葉を投げかけたことで退場宣告されてしまった。その後、弁明するどころか選手の意見を代表して言っただけだ、とまで言っている。

下手くそに下手くそって言って何が悪い。
栄村には全球団のやつがやられてる。
代表して言っただけ。

そんな栄村隆康さんは同じく誤審が多いと言われている秋村謙宏さん、中村稔さんとセットで『三村』『スリービレッジ』などと呼ばれていたらしい。

ただ栄村隆康さんに関しては『栄村ゾーン』は毎回変化があるものの、球団や選手を限定して変わるものではなく、ある意味その判定には公平性があるとも言われていて不思議な存在感をもつ審判員だ。

審判・栄村隆康の事故ではない

栄村忠広さんと吉村禎章選手との間に起きた大事故のことを、吉村禎章選手が捕球した際、審判員だった栄村隆康さんがぶつかって大ケガをさせたとして記憶している人がいるようで、うその情報が出回って困っているのは栄村忠広さんだけではなく、栄村隆康さんの方でもあり大迷惑な話である。

統括:栄村忠広の肩の荷は降りたのか

栄村忠広さんが吉村禎章選手にケガを負わせたことで、引退後もずっと自責の念にかられ、直接吉村禎章選手に謝罪の言葉を告げることができなかったことをずっと後悔していた。

そんな栄村忠広さんの気持ちを吉村禎章選手に伝えてくれたのは、2014年に放送された『石橋貴明のスポーツ伝説…光と影』だった。

「許してください」

この言葉は吉村禎章選手が過ごしてきた辛い時間を思えば、簡単に口にできる言葉ではなかったのだろう。

そしてこの言葉を口にすることができたということは、栄村忠広さん自身も少しだけ自分を許せることができたのではないかと思う。

今までトラウマだったことから少しでも解放されて、普通の生活を楽しく送ることができていることを心から願いたい。

 

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