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高濱機長の軌跡【責務を全うした勇者と家族の絆】

1985年8月12日午後6時53分、群馬県多野郡上野村にある通称「御巣鷹の尾根」に日本航空のジャンボ旅客機が墜落した。

機長は高濱雅己、当時49歳である。

お盆の帰省ラッシュでほぼ満員の機内。

乗客乗員合わせて524人のうち、生存者は4人のみという未曾有の大事故であった。

飛行機は「世界一安全な乗り物」と言われている。

運輸安全委員会がまとめている航空事故の統計でも、「飛行機が揺れて乗客負傷」程度の事故が年に数件あるくらいだ。

参考:運輸安全委員会・航空事故の統計

何の疑問もなく飛行機の安全神話を信じていた私達に、この国内線の事故は計り知れない衝撃を与えた。

墜落直前の蛇行しながらの飛行を目撃した人もいる。

墜落現場から、死を目の前にした乗客が家族に宛てた遺書も見つかっている。

そして回収されたボイスレコーダーに、高濱機長らの最期の肉声が残されている。

全てが、生々しすぎたのだ。

しかし、この衝撃の事故から今年で36年目の夏を迎え、風化の感は否めない。

この事故と高濱機長の壮絶な最期は、決して風化させてはならないものである。

そこで今回は、自分も死を目前にしながら、「乗客の命を守る」という職務を最期まで全うしようとした高濱機長にスポットをあて、日航機墜落事故を改めて見つめ直してみたいと思う。

高濱機長

記事の内容

  • 日航機墜落事故、高濱機長の搭乗前から墜落までの経緯
  • 日航機墜落後の捜索
  • 高濱機長の最期を収めた最強のボイスレコーダー
  • 発見された高濱機長の遺体は上顎と5 本の歯だけだった
  • 最期まで職責を全うした高濱機長、その経歴や出身
  • 在りし日の高濱機長の姿、そして家族にとっての36年
  • 高濱機長の妻
  • 高濱機長の息子
  • 高濱機長の長女
  • 高濱機長の次女
  • 総括

日航機墜落事故、高濱機長の搭乗前から墜落までの経緯

日航機墜落事故

高濱機長が搭乗したジャンボ旅客機は、午後6時4分に羽田空港を出発し、大阪の伊丹空港には午後6時56分着の予定で飛行を始めていた。

この日の機体は朝から羽田空港〜千歳空港の往復、羽田空港〜福岡空港の往復をこなしており、この時には特に異常なく飛行を終えている。

高濱機長が搭乗した時は、機体としてこの日3往復目の飛行になったわけだが、実際に操縦をしたのは副操縦士であった。

高濱機長は、この副操縦士の昇格試験の為の試験官として副操縦士席にいたのである。

順調に飛行が進めば、1時間足らずで目的地に着くのだから試験にはちょうど良い距離であっただろう。

午後6時4分に出発した機体が実際に離陸したのが午後6時12分、最初に機体の異常を感知したのが午後6時24分であるから離陸して間もなく機体に異変が起きたことになる。

事故現場から回収されたブラックボックスの解析によると、最初の異変は「ガコン」という衝撃音で、高濱機長は何かが爆発したと思ったようである。

すぐに点検を行ったが、エンジン等には異常がなかった。

高濱機長は管制塔に非常事態を発信し、羽田に戻る事にした。

この時、操縦は自動操縦ではなく手動であったが機体の傾きを元に戻す事が出来ない状態になっていた。

操縦装置や、高度を上げる為に使われている油圧が低下していたのだ。

衝撃音からわずか3分で油圧はゼロになり、共に搭乗していた航空機関士がその事を管制塔に伝えている。

しかし高濱機長らは、操縦不能の理由をはっきりとは把握出来ないまま墜落したと思われる。

客室の方は、気圧が少ない時の警報音が鳴っており高度を下げなければならなかったが、操縦不能に陥っていた機体は不安定な飛行を続けるのみだった。

後の記録によるとその傾きは、左が50度、右に至っては60度あったという。

その後機体は1000m幅の上昇や下降を続け、失速したかと思えば加速するという飛行を繰り返す。

この時はもう管制塔も交信が出来なくなってしまっていた。

そして午後6時56分、本来の飛行ならば伊丹空港に到着していたはずの時間に、機体は御巣鷹の尾根に墜落してしまったのである。

日航機墜落後の捜索:何もかもが「黒い」

日航機墜落後の捜索

墜落の際にレーダーから機体が消えてしまった為、夜間に炎が上がっている確認などは出来たが、墜落地点が特定出来たのは翌朝の日の出の時刻、5時であった。

実際に捜索隊が現場に入ったのは朝9時である。

現場までの道のりは険しく、到着までに時間を要した。

墜落後、火災が発生した事で、現場は何もかもが「黒い」状態であった。

周囲の木、機体の残骸、そして遺体も。

4人の生存者がいた事は奇跡的で、その生存者以外は即死に近い状態であった、と当初は言われていたが、その生存者の証言によれば、墜落直後は他にも人の声が聞こえ、生存者はもっといた、との事である。

現場の惨状からすると、もっと多くの生存者がいたとはとても思えない。

それにも関わらず更に多くの生存者がいた、という事は高濱機長らが、命を賭して乗客の安全を守ろうとした証、ではないだろうか。

高濱機長の最期を収めた最強のボイスレコーダー

ボイスレコーダーは通称「ブラックボックス」と呼ばれ、コックピット内の音声の記録が出来るCVRと呼ばれるものと飛行データの記録が出来るFDRと呼ばれるものの総称である。

万が一の墜落の衝撃や、火災よる1,000度を超える熱、水深6,000メートルに沈んでも耐えられる構造になっており、事故原因の究明に欠かせないものになっている。

FDRは、ステンレス鋼とチタンで2重構造にしてありCVRはフラッシュメモリが内蔵され、デジタルで記録が残せるようになっている。

墜落現場から回収されたボイスレコーダーからは墜落までの30分間の音声記録が公開された。

胸を締め付けられるような緊張感。

高濱機長らの、最期まで乗客を守ろうとした使命感。

墜落するその時まで果たそうとした職責。

YouTube では今でも、誰でも聞く事が出来る。

それが良い事かどうかは分からない。

しかし、この音声を聞くまでは、操縦ミスの疑いもかけられていたくらいであるから、高濱機長らの懸命な姿と潔白が証明されるという点では、ボイスレコーダーの音声が公開された事は意義深い。

音声が公開された当初、高濱機長の「これはだめかもわからんね」や「どーんと行こうや」などの言葉の揚げ足をとり「最後は諦めたではないか」などという声もあった。

この未曾有の事故を結論づける事が出来ず、誰かの、何かのせいにしたかったのだろうと推測する。

フラットな心でこの音声に向き合えば、高濱機長らが、自分達の命など顧みず墜落するその瞬間まで懸命に機体を立て直し、乗客を守ろうとしていた事が本当によく分かる。

人が命をかけて何かを守ろうとしている場面の記録など、なかなかあるものではない。

そのとてつもないエネルギーに、聞いていて苦しくなる事は間違いない。

しかし、これほどまでに尊い姿を収めたものが、他にあるだろうか。

一度聞いてみる事をお勧めしたい。

高濱機長のボイスレコーダー

発見された高濱機長の遺体は上顎と5 本の歯だけだった

乗客の安全を最後まで守ろうとした高濱機長であるが機長自身は即死であったと思われる。

高濱機長の遺体で発見出来たのは、上顎と5本の歯のみであった。

多くの遺体が、五体整わない状態で収容されていたが、操縦席の衝撃は最も大きなものであっただろう。

歯の治療痕の一致で高濱機長と判明し、遺族に引き渡されたが妻は、本当に高濱機長のものであるかどうか、長年納得がいかなかったようである。

亡くなった事も受け入れ難いはずであるから、「高濱機長です」と歯を見せられても、確かに信じ難いであろう。

後に、歯の治療痕で高濱機長と特定した歯科医師から直接、歯型特定の正確さを聞かされ、長年の思いがやっと納得いくものになったという。

最期まで職責を全うした高濱機長、その経歴や出身

高濱機長は 昭和11年1月2日、宮崎県の延岡市に生まれた。

京都にある高校を中退し、海上自衛隊に入隊している。

高濱機長が自衛隊に入隊した年は自衛隊が発足した年である。

高校を中退して自衛隊に入隊したという事は、国の防衛に大きな関心を寄せていたのかも知れない。

その後自衛隊の「割愛制度」により昭和41年、日本航空に入社する事になる。

「割愛制度」というのは、自衛隊から多くのパイロットが民間航空会社へ転職するのを防ぐ為に、自衛隊から民間航空会社へ転職するパイロットの数を調整する制度である。

入社後の高濱機長は、順調に操縦実績を積み重ね昭和52年には、副操縦士を機長席に置いて操縦をさせる事の出来る指導的役割の機長という資格を得た。

墜落したジャンボ機では、副操縦士が機長への昇格試験を受けており、高濱機長は試験官として副操縦士席にいたとされる。

墜落までの操縦指示で分かってしまうのはとても皮肉な事だが、操縦不能になった飛行機を、エンジンの加減だけで30分も飛行させるのは並大抵の事ではなく、大変高度な技術を備えたパイロットだったと言えるだろう。

高濱機長:経歴や出身

在りし日の高濱機長の姿、そして家族にとっての36年

日航機墜落事故の当時、高濱機長は千葉県に住んでいた。

妻は日本航空の元CAで、一男二女の良き父であった。

阪神タイガースのファンで、焼き鳥と冷やし中華が好物。

家族で行きつけの焼き鳥屋に顔を出し、子供達の姿に目を細めながら焼き鳥とウイスキーでくつろいでいたらしい。

後のテレビでの再現ドラマによると息子はゲーム好きで、息子にゲームをやり過ぎるなと諭す、優しい父の姿が描かれている。

普通にある微笑ましい家族の姿がそこにはあった。

しかし、大切な「ありふれた幸せ」は8月12日を境に一変してしまう事になる。

遺族でもあり会社側でもある高濱機長の家族はとても複雑な立場に立たされてしまったのだ。

同じ遺族なのに、他の遺族達と同じ扱いはしてもらえない。

乗客の捜索は昼間でも、乗員の捜索は夜間であったり同じ遺族でありながら、日本航空に対する非難を受けたり操縦ミスの疑いをかけられ、嫌がらせの電話が何本も入ったり悲しみに追い討ちをかけるような出来事が続いた。

それでも、遺された家族は粛々とそれを受け入れ、子供達は成長し、娘2人は航空会社への就職を選んだ。

高濱機長は、どのような思いで空から見守っているだろうか。

妻は元CAである妻淑子さん

日本航空の元CAである妻淑子さんは、夫である高濱機長の職業上、「何かあった時に夫は命を落とすかも知れない」という事は、

日頃から頭の片隅にあったであろう。

高濱機長も日頃から「覚悟だけはしておけ」と言っていたようだ。

しかし、一般の人々から夫に対する中傷の電話が何本も入る事までは予想していなかったであろう。

かかってくる電話すべてに「申し訳ありません」「申し訳ありません」とひたすらお詫びし続けた、という淑子さん。

パイロットの妻としての使命を感じずにはいられない。

高濱機長にとって、自慢の妻であっただろう。

日航機墜落事故から36年を迎えるこの夏、天国の夫とどのような話をするのだろうか。

高濱機長の息子

高濱機長の息子は、実は次男である。

長男は赤ちゃんの時に亡くなっているのだ。

高濱機長は今、亡くなった長男と同じ墓に眠っている。

その次男の情報は乏しいが、事故の後2年経った時当時の運輸大臣に手紙をしたため、ボイスレコーダーの開示を求めている。

その時には叶えられなかったが、後にボイスレコーダーの一部は開示されたため、早くから開示の必要性に目を向けていた

次男の優れた先見性が垣間見えるエピソードである。

長女は父を誇りに思っている

高濱機長の長女洋子さんは、父と同じ日本航空に就職しCAとなった。

事故当時、「519人を殺した」などと非難され、家族としての辛い記憶がありながら、父と同じ航空の道を進んだ洋子さん。

CAとして飛行機に乗れば、もしかしたら父と同じ目に遭うかも知れない。

母にも更なる悲しみを背負わせてしまうかも知れない。

それでもCAという職業を選んだことに、父に対する敬意、父を誇りに思う気持ちが表れている。

彼女にとってまさに命がけの職業選択であっただろう。

愛娘の仕事ぶりを、高濱機長も誇りに思っているに違いない。

高濱機長の長女

高濱機長の次女

高濱機長の次女、明子さんは毎年8月12日、夫や娘と御巣鷹の尾根を訪れ、父の墓標に手を合わせているという。

高濱機長にとっては孫にあたる明子さんの娘さん。

高濱機長が生きていたら、とても可愛がっていたことだろう。

総括:高濱機長の軌跡・風化させてはならない

今回は、高濱雅己機長の足跡を辿ってみた。

高濱機長の記憶と日航機墜落の事故は決して風化させてはならない。

高濱機長は優秀なパイロットであり、高濱機長でなければ、日航機墜落事故において生存者を残す事は出来なかったかもしれない。

ボイスレコーダーに残された、最期の記録は不謹慎かも知れないが、最高峰の技術を備えている高濱機長らの、その技術の粋を命がけで集めた煌めく才能が詰まっている記録、ともいえる。

事故後何年経ったとしても、この事故から学ばなければならない事は数多くある。

風化をしないよう、語り継がれていく事が望まれる。

改めて高濱機長始め、事故で亡くなられた方のご冥福をお祈りする。

 

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