お盆休み中盤、浮き足立っていた日本を駆け巡ったのが『日航機墜落事故』であった。飛行機は安全という安全神話を根元からへし折った事故だった。
当時は連日のように『日航機墜落事故』のニュースが流れ、お茶の間は釘付けとなり、『日航機墜落事故』で奇跡的な生還をとげたのが落合由美さんだ。
落合由美さんの貴重な事故前後の証言や、現在などについて調べてみた。
あれから35年が経過し、もうすぐ36年目の夏がやってくる。今一度『日航機墜落事故』について考えてるきっかけになって欲しい。
記事の内容
- 日航機墜落事故の生存者である落合由美さん
- 日航機墜落事故とは
- 数少ない生存者となった落合由美さん
- 落合由美が乗っていたJAL123便とは?
- 落合由美さんの怪我の程度は?
- 落合由美さんは他にも生存者がいたと証言
- 落合由美さんが救出されるまでの空白の16時間
- 御巣鷹での落合由美さんら生存者救出の手記
- 落合由美さんはその後復帰したのか?
- 落合由美さんの現在は?今はどうしてる?
- 総括
落合由美さんは日航機墜落事故の生存者である
落合由美さんは日航機墜落事故の生存者である。日航機墜落事故がどれほどの衝撃だったのか、当時のことを覚えている人は今でも思い出せるだろう。テレビに映し出された惨状は息を飲むほどであった・・・。
落合由美さんについて語る前に、日航機墜落事故についても簡単に説明しよう。
日航機墜落事故とは
東京国際空港(羽田空港)発大阪国際空港(伊丹空港)行きの定期便だったJAL123便が、群馬県多野郡上野村の高天原山(通称御巣鷹山)に墜落した事故である。
JAL123便が東京国際空港を出発したのは、1985年8月12日の18時04分。混雑する夕方の時間帯だったこととお盆休みが重なり、JAL123便はほぼ満員状態での飛行となった。
結果として乗員乗客524人中520人が死亡、生存者は落合由美さんを含む4人のみだった。2021年6月現在で、単独の航空機事故としては世界最多の死亡者数となっている。
この墜落事故では多くの著名人も命を落としている。歌手の坂本九さんや元宝塚歌劇団の北原遥子さんなどは有名だろう。他にも、ハウス食品工業代表取締役社長の浦上郁夫さんやミサワホーム専務取締役の山本幸男さんなど、大企業の銃重役なども多く含まれた。
死亡者数の多さもさることながら事故現場の凄惨な様子が連日テレビで放送され、日本中に衝撃が走った。それ以来『日航機墜落事故』といえばこのJAL123便の事故のことを指す。
日航機墜落事故後、東京と大阪を結ぶ「JAL123便」という便名は欠番となった。
数少ない生存者となった落合由美さん
日航機墜落事故の数少ない生存者となった落合由美さんは、日本航空のアシスタントパーサーだった。落合由美さんは札幌と東京の往路というその日の仕事を終えて、帰省するために8月12日の18時00分発のJAL123便に搭乗した。
13日から夏季休暇を取得していた落合由美さんは、大阪にある自宅に帰るところだった。
落合由美さんは墜落事故の8ヶ月ほど前に結婚したばかりの新婚だったのだ。一週間前から大阪行きの便を予約しようとしたが大阪行きはどの便も満席で、やっと空席がでたのがJAL123便だった。
JAL123便には札幌からの乗務で一緒だったキャビンアテンダント(当時スチュワーデス)の松本亜規子さんも搭乗していたが、彼女は助からなかった。落合由美さんは当初、松本亜規子さんの隣の座席を予約しようとしたが取れなかった。
JAL123便は機体頭部の損傷が最も激しいことから、頭部から御巣鷹山の尾根に墜落したものと見られている。生存者の4人すべてが機体最後尾周辺に座っていたことから、尾根の木々がクッションとなり、機体最後尾に搭乗していた4人は奇跡的に助かったのではないかといわれている。
もし落合由美さんが松本亜規子さんの隣の座席を取っていたら、彼女は助からなかっただろう。落合由美さんが助かったのは、さまざまな偶然が重なった結果の「奇跡」であることは間違いない。
【上を向いて歩こう】
34年前の今日、520の人々と無数の家族・関係者が悲しみに遭った日。https://t.co/o4fMA4mCdH誰かを責めるのでは無く、公共交通機関による犠牲者への御供養と、もうそんな悲しみは作らない自戒として、この歌を歌い続けて行く事を御提案致します。#日航機墜落事故 pic.twitter.com/kn0emGt3Ux
— トレインタイムス(YouTubeにてLIVE他公開中) (@TrainTimesCIC) August 12, 2019
落合由美が乗っていたJAL123便とは?
墜落事故を起したJAL123便は、ボーイング747SR-46型機であった。1974年に製造された機体で1985年8月12日に事故を起すまで、わずか11年しか経過していなかった。総飛行時間は25,030時間18分、総飛行回数は18,835回という記録が残っている。
JAL123便は1978年に大阪伊丹空港着陸の際に、機体尾部を滑走路面に接触させるという、いわゆる「しりもち事故」を起している。JAL123便が墜落事故を起す7年前のことである。
墜落事故直前にもJAL123便は、客室後部の化粧室ドアの不具合が発生している。客室後部のコートルーム棚下へ客室サービス用品を置いていたことが原因とされた。コートルーム棚下への積載はボーイングの禁止事項とされているので、人的ミスといえる。
しかし運輸省航空事故調査委員会は、1978年に起こった「しりもち事故」によって機体の歪みが生じ、それが原因になった可能性も否定できないとした。
落合由美さんの怪我の程度は?
奇跡的に助かった落合由美さんですが、やはり重傷を負っていた。発見されたときは、胸から上の上半身がくの字に曲がっていたという。
事故現場での医師の所見によれば、落合由美さんの主な怪我の状態は、顔面挫創、左上腕前腕骨折、骨盤骨折、全身打撲というものだったが、脈は比較的良好だったとのこと。搬送された病院では百針以上縫っていると、後に落合由美さん自身が語っている。
墜落後、意識が戻ると座席に座ったままの状態だったという。だが左手しか動かせず意識は朦朧とし、このまま死ぬのだと思ったそうだ。とにかく辛くて苦しみたくない一心で、舌を噛み切って楽になろうとした。しかし力が入らず強く舌を噛むこともできなかった。
もしここで落合由美さんが舌を噛み切っていたら、せっかく助かるはずだった命を失っていたことになる。力が入らなくて本当に良かったのだ。
それから、何度も意識を失ってはまた目が覚めるということを繰り返していた。一晩を御巣鷹山の尾根で過ごしたが、まったく寒さは感じず、むしろ身体は熱かったと語っているので、怪我により発熱していた可能性もある。
かなりの大怪我を負った落合由美さんだが、墜落した機体の状況などから見ても、五体満足で生きていたことは本当に奇跡としか言いようがないだろう。
落合由美さんは他にも生存者がいたと証言
日本航空のアシスタントパーサーだった落合由美さんによって、事故直前の様子が詳細に語られた。
最初の異常は「パーン」という大きい音で、2度目の「パーン」という音と共に白い霧のようなものが機内に立ち込め、前方が見えなかった。
隣同士で教えあいながら酸素マスクを付けた。立っていられないほど激しく揺れる機内の中でも、スチュワーデスは乗客に救命胴衣を着用させていたことなどを語った。
墜落直後、何人もの「はあはあ」という息遣いが聞こえたと落合由美さんは証言しています。「お母さん」と呼ぶ男のこの声と、まわりからたくさんの人の息遣いが聞こえたのだと。
次に気がついたときにも、若い女人の「早くきて」という声がはっきりと聞こえ、あたりからも人の息遣いが聞こえていた。それから落合由美さんは意識を失ったり取り戻したりを繰り返した。その間も「助けて」「だれか来て」とか、男の子の「ようし、ぼくはがんばるぞ」という声が聞こえていたと落合由美さんは証言したのだ。
この落合由美さんの証言を裏付けるような証言もある。墜落後に遺体検死をした医師によると、生存者が発見された周辺には生温かい遺体があったというのだ。
当時から生存者救出の遅れは問題になっていた。生存者が発見されたのは墜落後16時間も経過してからだった。
落合由美さんと遺体検視をした医師の証言は一致しているため、墜落事故後もかなりの時間生存していた人がいたのだろう。もう少し早く救助が行われていたら、助かった命はもっと多かったはずだ。
御巣鷹山の尾根という険しい場所だったとしても、どうにかならなかったのか・・・。あの凄惨な事故を生き延びた命が他にもあったのだと思うと、やるせない気持ちになる。
520人が亡くなった #日航ジャンボ機墜落事故 から12日で34年。現場となった「 #御巣鷹 の尾根」の麓を流れる群馬県上野村の神流川で11日夕、故人をしのぶ #灯籠流し が行われました。(撮影・植田千晶) https://t.co/QUZHt37IW9 #御巣鷹山 #日航機墜落事故 pic.twitter.com/75PeG579o1
— 共同通信写真部 (@kyodo_photo) August 11, 2019
落合由美さんが救出されるまでの空白の16時間
JAL123便の墜落事故には「空白の16時間」と呼ばれる遺族にとっては納得のできない時間が存在する。墜落事故から生存者が発見されるまでの16時間のことだ。
米軍のマイケル・アントヌッチ元中尉は、JAL123便がレーダーから消えた後、いち早く現場上空へ行き19時15分には墜落場所の位置を横田基地に伝えたと証言した。20時50分には米海兵隊の救援減りが降下しようとしていたが、日本の救難機が来たので基地に帰還したというのだ。
落合由美さんも墜落後、一度ヘリコプターの音が聞こえたが去ってしまったと証言しているので、2人の証言は辻褄が合う。
ブラックボックスには18時24分から18時56分までの音声が残されていることから、墜落事故は18時56分頃だと推測される。つまり、墜落の約2時間後には墜落現場が特定されていたことになる。
なぜそのときに助けられなかったのか、なぜ救助が遅れたのか?これが「空白の16時間」である。
落合由美さんの証言からも、もしそのときに素早く救助活動がされていたら、助かった命はもっと多かっただろう。時間を巻き戻すことはできないが、「なぜ・・・」「どうして・・・」と思わずにはいられない。
遺族であれば、その気持ちはなおさらであろう。
【#陸上自衛隊70周年】
昭和60年8月、#日航機墜落事故 に対する #災害派遣 を行いました。
この活動では、約60日間にわたって捜索、救助、空輸等を行いました。
なお、災害派遣で初めてリペリング降下及び負傷者の吊り上げを実施しました。#陸上自衛隊 #陸自 #御巣鷹山#日航ジャンボ機墜落事故 pic.twitter.com/oV2vvYdhw0— 陸上自衛隊 (@JGSDF_pr) August 12, 2020
御巣鷹での落合由美さんら生存者救出の手記
地元の消防団から自衛隊員、警察官まで多くの人が、日航機墜落事故の生存者捜索および救出にかかわった。その中には墜落事故当時の生々しい現状や、生存者救出の様子などを手記として残している人がいる。
自衛隊の第1空挺団としてリぺリング降下した隊員の手記には、そのときの御巣鷹山の尾根の生々しい惨状が綴られている。
降下して墜落事故現場に立ったときに最初に感じたのは「柔らかい何か」だったそうだ。違和感を感じて足元を見ると人の耳だった。
ご遺体を踏んでしまって申し訳ないと心の中で誤りながら活動に当たったが、五体満足で残っている遺体すらないような現場の状況を見て、「生存者なんているわけがない」と思ったそうだ。
“息を飲む光景でした。航空機燃料が燃える独特の臭いがして、岩肌には人の内臓がベタッと張り付いている。見上げると、髪の毛が付いた頭皮が木からぶら下がっていました。傾斜がきつく、木の幹に掴まりながら登るのですが、触った瞬間に滑る感じがする。見ると木全体が血と肉片で真っ赤に染まっていました。私の後ろを歩いていて、やはりその“赤い木”を触ってしまった隊員が「ギャーッ」と大声で叫びました。”
日々過酷な訓練を受けている自衛隊員ですら叫びたくなるような惨状だったのだ。どれほど悲惨で凄惨で地獄絵図のような現場だったのか、想像を絶するものだったのだろう。
事故現場が御巣鷹山だと聞いて現場に駆けつけた地元消防団の団員も、駆けつけたはいいがあまりの惨状に何をしたらいいのか分からず呆然としていたという。そんな中、残骸の中から手が振られた。それが落合由美さんだったのだ。
放射性アイソトープを積んでいたので機体には近づくなというような注意があったが、生存者がいると分かった瞬間そんなことは頭の中から吹き飛んでいたという。こんな状態のなかで生きている人がいた、とにかく助けなければとそれしか考えられなかったと手記で綴っている。
日航機墜落事故から今日で35年。
群馬県に住む者としてあの日の出来事はいつまでも忘れる事はできません。
改めてお亡くなりになられた乗員乗客520名の方々に対し謹んでご冥福をお祈りいたします。#日航機墜落事故#御巣鷹山
— みむりん (@mimu2rin2) August 12, 2020
落合由美さんはその後復帰したのか?
日本航空のアシスタントパーサーだった落合由美さんは、その後仕事に復帰したのだろうか?落合由美さんは仕事を終えて、夏季休暇に自宅に帰省する際に搭乗したJAL123便で墜落事故にあったのだ。つまり、自社の航空機に乗って墜落事故にあったということだ。
調べてみたのだが、「日本航空の事故関連業務に携わり定年まで働いた」という情報と「墜落事故、復帰しないまま退職した」という情報が混在しておりはっきりとしたことは分からなかった。
だが関係者らの証言から、日本航空の社員らを対象とした安全教育セミナーで講演をしたというのは事実のようだ。落合由美さんは、その講演で事故前後の状況や自身の近況などを語った。
何度も日本航空側から講演要請があったが、落合由美さんは断り続けていたそうだ。だが「社員にも安全意識を持って欲しい」と初めて講演に応じたのだとか。
落合由美さんが墜落事故後も日本航空で働いていたのだとしたら、講演要請を断り続けるというのは考えづらいだろう。
事故直後の落合由美さんは「また空を飛びたい」と、アシスタントパーサーとして復帰したいというようなことを語っていた。しかし、再びアシスタントパーサーとして航空機に乗るのは相当な勇気がいることだろう。
乗りたいと思っても、心と身体が拒否するかもしれない。PTSD(心的外傷後ストレス障害)などがあったことも考えられる。だとすると、墜落事故後は退職していたと考えるのが妥当ではないだろうか。
落合由美さんの現在は?今はどうしてる?
落合由美さんが2021年現在どうしているのかは分かりませんでした。ですが、日航機墜落事故から30年の取材の際には、夫と長女、次女の4人家族で平凡だけど幸せに暮らしていると落合由美さんの関係者が語っている。
日航機墜落事故が起きた当時はマスメディアの取材もひどいもので、かなり問題になっていた。
生存者が入院している病院に時間も構わず押しかけたり、遺族に付きまとって取材したりなどの問題行動があった。日航機墜落事故の関係者は心身ともに、多くのものをすり減らしたことだろう。
落合由美さんは2021年で62歳となるが、これまで公なインタビューなどには答えていない。平凡な幸せを噛み締めて、静かに暮らしたいということなのだろう。
ご家族と共に幸せに暮らしているだろうことを願っている。
総括:落合由美さんの幸せを祈る
日航機墜落事故は今でも日本最悪の航空機事故だ。救出が遅れたこと、迷惑を考えないマスメディアの異様な取材合戦など、問題も多かった。
そのときの教訓が、今の空の安全に繋がっているといっても過言ではない。多くの尊い命が失われた大事故により、空の安全神話が成り立っていることを忘れてはいけない。
そして最後まで乗客を守ろうとして職務を全うした、日本航空の乗員がいたことも決して忘れてはならないだろう。
時間が経過するごとに事件は風化していく。しかし、1年に一度くらいは多くの人が犠牲になった航空機事故があったことを思い出して欲しい。
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