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紅林麻雄の全貌:子孫や家族、最期や墓・拷問王の所以

紅林麻雄(くればやしあさお)という名前を聞いたことがあるでしょうか。戦中から戦後にかけて静岡県警察部(後の静岡県警察)に所属した警察官で、ある時までは数多くの表彰を受け「名刑事」と言われていました。

しかしその後「幸浦事件」をはじめとした数々の事件で、無実の者から拷問などによって自白を引出し、証拠を捏造するなどあり得ないような操作で多くの冤罪を生み出し、一部では「拷問王」「捏造神」などという悪名が付けられたのです。

現在でも警察捜査に悪影響を残しているともいわれる紅林麻雄ですが、その足跡やどれほど酷い行為をしてきたのかとともに、今でも残っている悪影響について解説します。

紅林麻雄

記事の内容

  • 拷問王 紅林麻雄のやり口と時代背景
  • 日本における拷問の変遷
  • 紅林麻雄の名声のきっかけ:浜松連続殺人事件
  • 名刑事と言われる裏で行っていたこと
  • 紅林麻雄の冤罪ファイル
    ①幸浦事件
    ②二俣事件
  • 紅林麻雄と小島事件・島田事件
  • 山崎兵八による告発
  • ついに警察退職
  • 紅林麻雄の謎が多い周辺事情
  • 紅林麻雄の最期
  • 袴田事件
  • 家族や子孫、親戚は?
  • 墓は存在するか
  • 紅林麻雄についての本
  • 拷問王と呼ばれた紅林麻雄は現在も反面教師
  • 総括

拷問王 紅林麻雄のやり口と時代背景

現在の警察や検察の捜査において表向きは非合法的手段を用いて自白の強要や、証拠の捏造などはしていないことになっています。

しかし2009年の「障害者郵便制度悪用事件」で、大阪地検の検事らが厚生労働省局長・村木厚子さんを犯人にでっち上げた「大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件」など、捜査手法への疑念は拭い去れません。

ところが戦前から昭和期の途中までの事件捜査では、今では考えられないような杜撰かつ人権無視の行為が横行しており、その代表格の一人が紅林麻雄です。

しかも彼の行為はその後も影響を与えており、かつての部下による冤罪事件にまで繋がっています。

拷問王 紅林麻雄

日本における拷問の変遷

現在の日本では日本国憲法第三十六条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と規定され、刑事訴訟法にも「拷問によって得られた自白は証拠として使えない」と明記されています。憲法に「絶対に」とまで書かれていることが、暗にそのような行為が実際は行われていたことを想起させます。

日本では明治時代の初期まで拷問は禁止されておらず、むしろ「拷問による自白」が断罪の要件ですらありました。しかし1876年(明治9年)の太政官布告で「断罪は証拠によること」と定められ、1879年(明治12年)には拷問制度は公式に廃止されました。さらに刑法でも警察官による拷問は職権乱用罪として処罰対象になったのです。

法に明記されたとはいえ警察の捜査現場では拷問はなくならず、「蟹工船」の作者でプロレタリア文学の小説家・小林多喜二が1933年2月20日に特別高等警察により逮捕され、拷問により同日死亡しています。

また1942年に当時非合法とされていた共産党「再結成」の疑いで新聞記者など約60人が逮捕され、激しい拷問で4人が獄中死するという「横浜事件」が起こっていることを考えると、法を守るべき警察の現場では遵法意識が低かったことは明らかです。

紅林麻雄の名声のきっかけ:浜松連続殺人事件

紅林麻雄が名刑事と賞賛されるようになったきっかけは、1941年8月から1942年8月にかけて、10名が殺害され7名が傷害を負う事件です。後に「浜松連続殺人事件」と呼ばれた事件で、磐田警察署所属だった紅林麻雄は捜査に応援で加わっていました。

紅林麻雄はこの当時からすでに自分の直感・推理を妄信する傾向があったようで、一連の殺人事件の3番目の事件で真犯人の身体検査を担当しながら「犯人像と違う」という理由で取り逃がすという失態を演じています。

しかし事件解決後、検事総長から捜査に功労のあったものとして異例の表彰をされた4人の中に「浜松署刑事室・紅林麻雄部長刑事」紅林麻雄の名前がありました。

紅林麻雄の名声

名刑事と言われる裏で行っていたこと

数々の事件を解決したとして「名刑事」と思われていた紅林麻雄ですが、その事件解決手法は「犯人のでっちあげ」そのもので、あらゆる非合法的手段を用いていました。

当時の静岡県警で紅林麻雄は「どんな相手も自白させ、僅かな証拠から事件を解決に導く推理能力に優れた刑事」と評価されていました。それもそのはずです。紅林麻雄は無実の人でも別件逮捕し、殴る蹴るの暴行は当り前で、焼火箸を押し付けたりトイレに行くことを許さず取り調べ室での排泄を強要したり、様々な拷問を行っては虚偽の自白を引き出していたのです。

また事件に対する自分の推理に過度の自信をもっていたことから、その推理に当てはまるよう供述調書の捏造なども当り前でした。しかしこれらの行為が問題視されたのは、後に紅林麻雄が捜査した事件での冤罪が明らかになってからのことです。

紅林麻雄の冤罪ファイル ①幸浦事件

1948年11月29日、静岡県磐田郡幸浦村(現・袋井市)の自営業を営む主人を含む一家4人が忽然と失踪し、事件性があるとして捜査するも越年したが、翌年2月に別件逮捕した4人から次々と自供を引き出し解決したと思われました。

1950年に静岡地裁は4人のうち3人に死刑判決が下されるも控訴し最高裁まで争った末、1957年最高裁は「重大な事実誤認の疑いがある」として東京高裁に差し戻し、1959年4人に無罪判決が下され、1963年には検察の上告が棄却され無罪が確定しました。

この裁判で明らかになったことは、無罪の4人に対する激しい拷問や、4人の自供のでっち上げなどです。さらには秘密の暴露(犯人しか知りえない事実)である遺体遺棄場所が発掘前に印が付いていたことも判明し、4人の(偽造の)自白の前に警察が場所を知っていた疑いが濃厚になったことが4人無罪も決め手になりました。

②二俣事件

1950年1月6日、静岡県磐田郡二俣町(現:浜松市天竜区二俣町)で就寝中の4人が殺害される事件が発生。被害者の腕時計は11時2分を指した状態で壊れており犯人のものと思われる指紋も付着し、また周辺には被害者家族のものと一致しない27cmの靴跡痕がありました。

2月23日、犯行現場周辺に住む18歳の少年を「犯行当時の所在が不明と推測」という、有り得ないような理由で別件逮捕し、紅林麻雄お得意の拷問と自白の強要と虚偽の供述調書を作成し、それを報道機関に公表しました。

二俣事件

実は事件が発生したと推測される1月6日23時2分には、逮捕された少年にはアリバイがあったのですが、当時上映されていたミステリ映画からヒントを得て「統計の針を進めた」とでっち上げていましや。さらに靴のサイズも一致していないなど、紅林麻雄の推理に不都合な点は全部無視です。

恐ろしいことに、こんな捜査の結果でも検察が告訴し一審の静岡地裁で少年に死刑判決が出されました。しかし最高裁は1953年11月原判決を破棄し、1956年9月静岡地裁は無罪判決を言い渡します。検察は控訴しましたが東京高裁はこれを棄却し1957年10月26日に無罪が確定しました。

この裁判の過程では、静岡県警で操作を担当していた刑事が「無実の少年が死刑になるかもしれない」という良心の呵責から、拷問による自白であることなどを内部告発しましたが、警察権力によって闇に葬られました。

紅林麻雄と小島事件・島田事件

「小島事件」は1950年5月10日、静岡県庵原郡小島村で女性が斧で撲殺された事件です。この事件でも紅林麻雄は村内で耳に入ってきた噂話からストーリーを組み立て、別件逮捕で拷問による自白と虚偽の供述調書で無実のものを犯人に仕立てました。

この事件の裁判も一審で出された無期懲役の判決が最高裁で覆ったのですが、最高裁は「強制、拷問又は脅迫によるなど任意性に疑いのある自白調書は、刑事訴訟法322条1項及び319条1項により証拠とすることができない」と、明確に紅林麻雄の捜査方法を否定しました。

「島田事件」は1954年3月10日、静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人・死体遺棄事件で、犯人にでっち上げられた被告人が死刑判決を受けたものの、再審で無罪になったものです。一般に「4大死刑冤罪事件」と呼ばれる冤罪事件の一つで、他には「免田事件」「財田川事件」「松山事件」があります。

この事件でも別件逮捕から拷問による自白、そして虚偽の供述調書など紅林的手法そのままの捜査が行われました。結果的に供述と医師による検死の結果の矛盾や、複数あった目撃証言と人相体格が違い過ぎるといった、警察にとって不都合な事実は無視され、冤罪を生み出すだけではなく、真犯人を野放しにしてしまうという、「警察による犯罪行為」と言っても過言ではない行為です。

山崎兵八による告発

「二俣事件」で捜査に参加し、拷問や虚偽の供述調書などを内部告発したのは「山崎兵八」という、当時「国家地方警察静岡県本部・二俣警察署」で勤務していた刑事です。山崎は後に逮捕された少年を担当しており、調べたところ少年にはアリバイがあることを捜査主任の紅林麻雄へ報告しました。

しかし紅林麻雄はこともあろうに「長年の第六感では(この少年が)犯人に間違いない」と宣言し、別件逮捕した後のことは「二俣事件」の解説通りです。山崎兵八が内部告発したあと当然のように警察内部は混乱し、所長は山崎に辞職願を出すように強要するものの山崎に断られ、出勤停止処分にしました。

山崎兵八は二俣事件の裁判にも弁護側の証人として立ち、警察による「拷問捜査」の実態を証言したのですが、一審で少年に死刑判決が出されると、なんと同日「偽証罪」で逮捕されたのです。逮捕後は精神異常のレッテルを貼られ、警察も退職させられたうえ、公安委員会に精神異常を理由に運転免許まで取り上げられました。都合の悪い人物を公権力が闇に葬ったのです。

警察失職後は5人の子供を抱え生活は困窮したうえ、村八分や親戚からも縁を切るといわれ、挙句の果てには不審火で家を消失する被害をうけました。しかも放火の犯人として山崎兵八の次男が補導されそうになるなど、(恐らく)静岡県警による復讐じみた行為は徹底していたのです。1970年にトヨタ自動車へ就職した愛知県豊田市に移住し、故郷に帰る希望も叶わぬまま2001年8月に息を引き取りました。

ついに警察退職

立て続けに冤罪を引き起こした紅林麻雄の転落は、自業自得を絵にかいたようなものでした。小島事件の控訴審が進む中、1953年11月に二俣事件の死刑判決が最高裁で破棄差戻しされ、1957年には幸浦事件の死刑判決も最高裁で破棄差戻しされました。

いずれも紅林麻雄を主任とした捜査陣が、拷問による自白の強要や、虚偽の供述調書、証拠のでっち上げなど、警察の信頼を著しく損なう行為の否定そのものです。

これを機に紅林麻雄は「名刑事」から「拷問王」と言われるようになり、非難を浴びた静岡県警上層部により御殿場署次席警部だった紅林麻雄は、吉原署駅前派出所へ飛ばされました。その待遇も交通巡視員待遇という実質「二階級降格」人事です。当然の報いですが、その後も警察内や世間からの非難で憔悴していた紅林麻雄は、1963年7月に幸浦事件の被告が無罪確定したことで気力が尽き、警察を退職しました。

紅林麻雄の謎が多い周辺事情

紅林麻雄の行ってきた犯罪的ともいえる捜査手法は、警察とくに静岡県警にとっては触れられたくない汚点だと言えます。

それ故なのか断定はできませんが、紅林麻雄についての記録は不明な点が多く、静岡県警によって記録が消されたのかと疑いたくなるほどです。

そんな紅林麻雄の最期や家族の有無などについて、現在分かっていることを元に追ってみましょう。

紅林麻雄の謎が多い周辺事情

紅林麻雄の最期

1963年7月に警察を退職した紅林麻雄ですが、それ以前から周囲の批判によって不安定な精神状態で、酒に溺れていたという話があります。しかしマスコミなどの取材に対しては、あくまで自分の非を認めませんでした。

そんな紅林麻雄の最期はあっけなく訪れ、警察を追われるように退職して僅か1か月半後、脳出血によって死にました。享年55歳です。数々の無実の人を犯罪人に仕立て上げた人間の最期としては「楽に逝った」という感想です。

袴田事件

1966年6月30日、静岡県清水市(現:静岡市清水区)で味噌製造業の専務宅が全焼するという火事が発生し、焼け跡から専務の他、妻、次女、長男の4人が刃物でめった刺しにされた遺体として発見されました。

警察は事件発生当初から従業員で元ボクサーの「袴田巌」を犯人と決めつけて捜査を行っており(日弁連の主張)、袴田巌の部屋から発見された血痕のついたパジャマなどを物証として、8月18日に強盗殺人・放火・窃盗の容疑で袴田を逮捕しました。

袴田事件

そこからの取り調べは過酷を極め、連日炎天下で平均12時間、最長で17時間にも及び、便器を取調室に持ち込み取調官の前で垂れ流しにさせるなど、人権など無いかのようなものでした。また泥酔者を隣に収容しわざと大声を出させるなど睡眠を妨害などもして、袴田容疑者はついに拘留期限3日前に自供させられました。

ここまででお気づきの方もいるでしょうが、この事件は紅林麻雄が死んでから後の事件です。しかしこの「袴田事件」で捜査に携わり、拷問や怪しまれている証拠を提出した捜査員は紅林麻雄の薫陶を受けてモノや元同僚たちだったのです。そのやり口は紅林麻雄のやってきたことのコピーのようですらあります。

袴田事件は1980年12月12日に最高裁で死刑が確定しましたが、弁護側の度重なる再審請求や、世論の声もあって2020年12月22日最高裁は「再審請求を棄却した京高裁決定には審理を尽くさなかった違法がある」として審理を差し戻しています。

家族や子孫、親戚は?

非道のかぎりを尽くし、拷問や捏造によって冤罪を作り上げていった紅林麻雄ですが、最後は非難を浴び続け警察を退職し、55歳で死にました。紅林麻雄に関する情報は不思議なくらい現存しておらず、家族や子供、親戚がどうなっているのか全く分からないのです。

これだけの行為をやってきて、人を苦しめてきた紅林麻雄の家族や親戚であれば、そうと分かっただけで非難されるでしょうし、もしかしたら名前を変え、紅林麻雄と関係のない人間として生きているのかもしれません。

今でも紅林麻雄とは無関係なのに「紅林」という苗字で誤解を受け、迷惑をしている人がいるようですが、実際のところは家族がいたのかも分からないのです。

墓は存在するか

紅林麻雄は1963年9月に脳出血で亡くなったことは分かっています。しかし死亡後どのように処理され、埋葬がどうなったのかの情報が消されているのか無いのです。

一部では「脳出血で死んだのは本当なのか」と疑問視する説もあるようですが、家族や親族同様、お墓の所在などは一切分かっていません。

紅林麻雄についての本

紅林麻雄は冤罪をかけられた被害者にとっては犯罪者そのもので、当然そのような人間を評価するような本は存在していません。

しかし「冤罪」を研究する人にとっては価値があるようで、管賀江留郎氏の「冤罪と人類」「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」などで、冤罪を生み出してしまうメカニズムの一例として紅林麻雄を取り上げています。

しかし紅林麻雄のような拷問はなくなったにせよ、冤罪を生み出す可能性は現代でもあるわけで、反面教師としての存在価値だけは紅林麻雄でもあったようです。

紅林麻雄についての本

総括:拷問王と呼ばれた紅林麻雄は現在も反面教師です

記事のポイントをまとめます。

紅林麻雄について

非道行為に手を染めるまで

  • 現在でも起きうる「冤罪」
  • 明治の初めまで当たり前だった拷問
  • 浜松連続殺人事件で名刑事と呼ばれた紅林麻雄
  • 名刑事になれた理由「拷問・捏造」

紅林麻雄によってでっち上げられた事件の数々

  • 紅林手法の第一歩「幸浦事件」
  • アリバイなんか無視「二俣事件」と内部告発
  • 拷問・捏造が当たり前の「小島事件」「島田事件」
  • 正義の告発者「山崎兵八」への残酷な仕打ち

紅林麻雄の周辺と悪しき影響

  • 最後は警察を追われるように辞め、1か月半後に死
  • 紅林麻雄の亡霊か「袴田事件」
  • 家族も親戚も墓も分からない紅林麻雄

日本の警察の歴史でも汚点と言っても過言ではない紅林麻雄の捜査手法ですが、彼の行ってきた非道の数々は紅林麻雄だけの問題ではなく、現在も言われ続けている警察の闇に通じるものがあります。

戦後まもなくまでは明らかになっていないだけで、第二第三の紅林麻雄が存在していたであろうことは「自白偏重」と言われてきた警察捜査の歴史を見れば明らかでしょう。

紅林麻雄の悪行をおおいな反面教師として、一般市民としても取り調べの可視化など、公権力の暴走を防ぐための主張をしていく必要があると感じさせてくれる「拷問王」です。

 

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